四 度 目 の コ コ ア



 風が冷たい。
 物理的にも心情的にも甲乙つけがたく冷たい。
 どちらか一方でも厳しいのに、束でかかってこられるとその威力は単純に倍ではなく、他所に散らばっているネガティブの種までかき集めて巻き上がり、やさぐれた気分を四倍にも五倍にも盛り立ててくれる。
 秋物のトレンチコートはいささか守りが薄かったようだ。家を出た時はさほど感じなかったというのに、数時間電車に揺られれて降り立ったふるさとは、都会暮らしに慣れた美和を雨交じりの強風で手荒く歓迎した。海が近いせいか木枯らしにも根性が入っている。幾度も吹き付けては皮膚を傷めつけていった。
 この町はこんなに寒かっただろうかと震えながら考えても、次々襲い掛かる風に身をすくまめるのに忙しく、うまく思い出すことができなかった。
 ちくしょうめ。この寒さ、覚えてろ。
 いつか、こう、なんかの折にはぎゃふんと言わせてやる。
 鼻をすすりあげながら悪態をつくも、寒さで頭がまわらないせいかどうにも歯切れが悪いのだった。

 その店が目に入ったのは、ボストンバッグを抱えていた指がかじかんできた頃。
 古びたクリーニング屋と古びた金物屋の間にひっそりと建つ、これまた負けず劣らず古びた喫茶店だった。
 まだやってたんだ。
 美和は足を止めて白い息を吐き出した。
 何十年と離れていたわけではない。生まれ育った町の輪郭は、そう薄まらずに記憶に残っている。シャッターが目立つ商店街も、人もまばらな駅の構内も、そしてこの喫茶店が並んでいる通りの風景も、ほんの切れ端とはいえ美和の思い出の中で根を下ろしていた。
 今時のカフェとは趣きの異なる、落ち着きさえ漂う昔ながらの外観と日に焼けた看板。その垢抜けたところのない佇まいは、冷え切った身にとてもあたたかそうに見えた。
 美和は吸い込まれるようにして店の扉を開いた。

 店内は昼間だというのに、しっとりと薄暗い。
 美和の足は自然と窓際の奥の席に向かった。腰を下ろすや否や、店とともに年を経たであろう老いた店主が注文を取りに来たので、メニューを開くこともなく、温かいココアを頼んだ。
 かちこち。かちこち。
 心地よい静けさの中を、無数の時を刻む音が慎ましやかに重なり合う。
 音を生んでいるのは、店のあちこちに飾られたアンティークの時計や時計を模したオブジェたちだ。主人の趣味なのだろう、窓と言わず棚と言わず、隙間という隙間を埋めるようにして飾られている。そのどれもが美和の祖父の年齢を軽々飛び越しそうな年季の入ったものばかり。ガラクタとも骨董ともつかない群れに囲まれる空間は、昭和の匂いがしみついた内装も相まって、ここだけ時が止まっているような錯覚に陥る。
 懐かしい。
 美和は安堵にも似た息を吐いた。

 足繁く通っていた、とは言えない。
 町を出る前はまだ学生で、喫茶店と呼ばれる場所にふらふらと入れるほど経済的にも精神的にも育ってはいなかった。せいぜい安いクーポンを握りしめてファストフードが関の山といったところだ。そのファストフード店も駅前から撤退していて、物寂しさを助長してくれたのだが。減りゆく看板と人影、増えるテナント募集。ただでさえ低い体感温度がますます下がる。
 
 美和が座った席の、大きくはない窓にも置時計が三つほど並べられている。微笑ましい気持ちとともに、若干の違和感を覚えた。はっきりとは言い当てることはできないが、以前と様子が少し違う気がする。判然としない感覚に首を傾げはしたものの、記憶に確固たる自信があるわけではないし、長年営業を続けている店が、配置や模様替えをしないという保証はない。
 すぐに忘れて、美和はテーブルに肘をついた。

 窓ガラスを隔てた外の世界は冷たく、向かいの印鑑屋の看板が風に煽られて枯葉とともにくるくると回っている。歩く人の姿はない。雲におおわれた空模様そのままどんよりとしょげているように見えて、再び美和に鬱々とした気分を呼び込んだ。
 窓際の席がいけなかったのか、店に入った時は暖かさに身がほぐれたような気がしていたのに、腰を落ち着けているとスース―とどこか肌寒く感じられる。美和は脱ぎかけていたコートをぐっと引き、もう一度着込んだ。
 とりたてて寒がりというわけでもない。なのに今日に限って身に染みる。隣にいるべき誰かの不在がそうさせているのだと、美和は知りたくないけれど知っていた。

 別れてほしい。
 彼は、そう美和に告げた。
 美和が靴下の片方を探している、そんなタイミングでだ。
 一度目は靴下を探す方に注意が向いていたせいで聞き流した。けれど彼は声のボリュームと滑舌の精度を上げて、再び宣告した。はっきりと、聞き間違えのないような確かな発声で。
 長い6年という交際期間が、煙のように消えた瞬間だった。 探していた靴下はそのまま見つからなかった。

 腹の底からふつふつと湧いてきたものを誤魔化すようにお冷を喉に流し込む。
 お冷は本当にお冷だった。どうしてそこまでという位にキンキンに冷えていた。夏なら御馳走に違いないが、今の季節では修行に近く、余計震える羽目になった。唇はきっと青い。

「大丈夫ですか」

 誰とも知れぬ声が美和に問いかけた。
 目をやれば、隣の座席に青年の姿がある。美和は思わず息を飲んだ。すぐ横に、人がいるとは思わなかったからだ。それに、その青年の容貌。見事な金髪と青い瞳はどう見てもこの国のものではない。その上、作り物のように美しい顔立ちをしていた。ひとたび道を歩けばさぞや人目を惹くだろう姿に、美和は声をかけられるまで気づかなかった。気配すら感じていなかった。
 いかに寒々しいものに支配され、余裕を失っていたのかと愕然とした。

「す、少し隙間風が入るみたいで、」

 戸惑いの名残で、笑顔は少しぎこちない。何語で喋ればいいのかと一瞬考えたが、先ほど彼の流暢な言葉を思い返し、変わり映えのない日本語で返した。

「古い建物ですからね」

 そう言う彼こそ、仕立ての良さそうな白いシャツに薄いグレーのスラックスという出で立ちで、美和よりよほど薄着な格好をしている。ただ、首元にまかれた黒いマフラーだけは温かそうだった。

「日本語お上手ですね」

 青年は生まれは貴族かと見まごう優雅な微笑みをくれた。

「もう長いですから」 

 娯楽も人口も乏しい田舎町には外国人さえ珍しい。こんな美貌が歩いていればたちまち話題になるだろう。
 実家についたら母に聞いてみよう、美和はぼんやりとそう考えて、すぐに気が滅入った。
 美和が町を出てから、友人や両親と電話のやり取りはすれども、里帰りはこれが初めてになる。親と不仲というわけでも、帰りたくない事情があるでもない。忙しさと億劫さが妨げになっていただけのことだ。
 今日だって、単なる気まぐれで帰ってきたわけではない。
 人生を左右する重要な意味を含んだ帰郷になる……はずだった。
 本来なら、二人揃って故郷の地を踏むはずだった。
 こんな風に、一人で寒さに身をすくませるなんて思っていなかった。


 大学時代に合コンでなんとなく知り合い、なんとなく付き合い始めた、なんとなくの関係。
 例えるならば、風のない池の小舟に乗り続けるような、凪いだ6年だった。
 お互い浮気もせず、納豆に辛子を入れる入れないくらいのささいな揉め事はあっても、大きな衝突も関係にヒビが入るトラブルも起きず、二人のなんとなくの縁は持続した。
 小舟は刺激が足らない分退屈ではあるが、心地よかった。ずっとこのまま揺られながら過ごすのだと、疑うことなく信じきっていた。
 だというのに、だしぬけにやってきた嵐によって舟はあっさりと大破した。
 こんなにも簡単に沈んでしまうのだと、美和はずぶ濡れになりながら呆然とした。


 無意識にお冷を手に取ろうとし、先ほどの過ちを思い出して引っ込める。もうこれ以上胃を氷点下に突き落とすのは御免だ。
 ええい、あたたか〜いココアはまだかと心で吠える。

「ここのココアは鍋でじっくり煮込むから、時間がかかるんですよね」

 美形は心を読むスキルまで備えているものなのか。それとも読むまでもなく、顔面に胸の内が現れてしまっていたのか。後者である予感がびんびんと点滅しているので、美和は無意識に口元を隠すようにして笑顔をつくった。 

「だからコクがあっておいしいんですね。私、ここでココアしか飲んだことがないんです」

 注文するものも、座る席も変わらない。
 今と同じこの席に座って、同じようにココアを注文し、この世の時の全てを刻むかのような音を聞いた記憶がそろそろと裾を引く。
 今を除けば、美和が喫茶店を訪れたのは三回。
 一度は学校に上がったばかりの幼い頃、他界する前の祖母に連れられて。二度目は父と母と映画を見に行く途中に。三度目は大学を受験した帰り道。
 人生でたった三度の思い出はさほど色濃くはない。それでも、おびただしい数の時計とココアのぬくもりは過去の足跡として残っている。濃厚でこっくりと甘いココアは、寒ければ寒いほど温かさに飢えていれば飢えているほど舌と胃にしみる。
 美和の恋人は、恋人だった男は、よくココアを淹れてくれた。料理をまめにするわけでもなく、台所に積極的に立つようなタイプではなかったが、ココアだけはびっくりするほど上手だった。熱々でとろりと甘くて香ばしくて、一口飲めば疲れも溶けて消えるような。
 詮無いことを思い出して、美和は目を伏せた。
 冷えた鼓動に合わせて時計の音が鼓膜を打つ。
 かちこち。かちこち。
 

 かつて、ここでお茶をするのは幼い美和にとって特別だった。
 健全な明るさが寄り付かない、ほんのりと夜の雰囲気さえ漂う空間に身を置くことで、大人になったような気がしていた。 
 歳を重ねた今、一人でこうして腰かけていても、もう胸は高鳴ったりはしない。
 あの頃思い描き、夢と期待を膨らませた大人は、いざその立場に成ってしまえばそれほど強くも格好良くもなかった。
 美和はもう子供ではない。見た目ばかりは立派な大人という入れ物を手に入れた。大人の入れ物は中身が詰まっていなければ、カルシウムの足りない骨のようにすかすかで脆くて、寒さに弱い。

「よかったらこれを」

 目の前に黒い塊が現れた。
 それが美青年のマフラーだと気が付くのにおよそ5秒ほど時間を要した。

「失礼」

 まだ何も答えていないのに、意思とは無関係に美和の首に巻き付く。優しいウールの感触とどこか懐かしい香りが鼻を撫でた。
 温かくてほっとする。
 いやそうじゃない。
 ハッと我に返った頃には、その手は美和から遠のいていた。

「あのっ、マフラー」
「どうかそのままで。冷えきっているのでしょう、顔色があまりよくありませんよ」
「でも」

 それではあなたが、と訴えたが、彼はおよそ薄っぺらい装いには似つかわしくない、日向にでもいるような風情で首を振った。

「僕のことは構わず。充分温まりましたから」

 やせ我慢を疑うも、彼には寒々しい気配などひとつもない。柔らかかつ貫録のある麗しい笑みに屈し、美和は彼の好意を甘んじて受けることにした。
 それに、見知らぬ男性からいきなりマフラーを巻きつけられたというのに、不思議なことに一切の抵抗も嫌悪感がわかなかったのだ。何故かはわからないけれど、最初から美和は彼に対して警戒心というものがなかった。こんな冗談みたいな美形、一度会えば忘れるわけがないのだから初対面に違いないだろうに、どこか見覚えがあるようなそんな気がしていた。
 容姿の美しさに丸め込まれた脳が機能しなくなっているわけではないとは思う。たぶん。たぶん。恐らく。少しくらいはイケメン無罪が適用されているのかも知れないが、顔が全てではないはずだ。たぶん。
 
 真っ黒い無地のマフラーは温かかった。
 暖房が強くなったわけでも日差しがさしたわけでもない。首をくるりと一周しているだけだというのに、火のそばにいるみたいに美和にひと時の安らぎもたらした。芯を蝕む、冷えたものが尻尾を巻いて逃げ出す。
 追い払われた寒さは消えることはなく、その場に留まってはくるくると回った。


 好きな人ができたんだ。
 彼は見たこともない真っ直ぐな顔をしていた。真剣で、苦しそうな、けれど一欠片も迷いのない。
 正直な男だ。残酷な男だ。
 まだ相手と付き合えるかどうかすら知れない片思いの段階で、そう告げ、美和に別れを切り出した。美和を体のいい逃げ場にも保険にもしなかった。
 ごめん。ほんとにごめん。
 謝罪とともに何度も男は頭を下げる。美和はその頭をクッションで歳の数だけ殴りつけた。
 気は晴れなかった。晴れなかったけれど、安穏とした小舟を捨てて、大海原へ無鉄砲に泳ぎ出した馬鹿を、止めるすべなどなかった。 
 なし崩しで始まった曖昧な縁は、燃え上がるような炎にあまりに儚い。
 美和が持っているものはともに過ごした六年の歳月しかなく、盾としたところで威力などたかが知れている。紙のごとくたちまち焼け落ち、焼失した。
 焼け残ったのは喪失感。
 彼の捨て身の決意に炙られたそれを見て、美和は果たして彼のことが好きだったのか、彼と作り上げた摩擦のない関係が好きだったのか、急にわからなくなった。
 失いたくないはずなのに、引き留め縋りつく情熱はわいてこなかったのだ。情けないことに、穏やかな日常や約束された未来を惜しむ思いの方が強かった。

 彼は恋をした。相手は美和ではない。
 美和もまた、彼に恋をしていなかった。
 マフラーに身を守られながらも、心の風穴がひゅうひゅうと音を立てる。


 おまたせしました、と少ししわがれた声とともにココアが運ばれてきた。
 最初に鼻が反応した。
 物思いに沈んでいたはずなのに、ひく、と豚のように動く。
 華奢とはいえない頑丈そうなカップに溢れんばかりに注がれて、甘い香りを放っていた。ぐつぐつと音が聞こえてくるようだ。
 胃が音を立てるのに促され、真上から覗き込む。雪で夜の色を溶かしたみたいな水面から湯気が立ち上り、美和の顔をあたたかく撫でた。
 
 この店でココアを飲んだのは三回。 
 いずれも寒さの厳しい季節で、今日と同じ凍てつく風が吹き付けていた。だというのに思い出として蓄積している手触りは似ても似つかない。
 祖母の膝の上で過ごした記憶は安らかで温かい。両親と向き合って座った記憶はわくわくと高揚して。受験が終わった解放感でひと心地ついた記憶は清々しく。
 いくら冷気に頬が強張っても、胸の内に北風なんて吹いていなかった。
 今みたいに風穴から音なんか聞こえなくて、今みたいに曇った空に気が沈むこともなくて、今みたいに優しさもあたたかさも持ち合わせていないすかすかの心ではなかった。

 外があまりに寒かったから、胸の内があんまり空っぽだったから、睫毛が凍ってしまっていたのだろう。
 それが今、熱に触れて溶けたのだと、美和は思った。
 目の周りが熱くて冷たいのは、きっとそのせいに違いないのだと。 

「火傷に気を付けて」

 マフラーと同じ柔らかな声がした。
 大袈裟な瞬きで雫をふるい落とし、隣の青年に向けるための笑顔をこしらえた。

「ほんと、熱そう」

 そう呟いてから、過去、息を吹きかけるも冷ますには足らず、毎度必ず舌を火傷していたことを急に思い出した。美和は少しおかしくなって、誰の為でもなく少し笑った。

 カップを両手で抱えながら口をつける。
 何度も何度もしつこく息を吹きかけたのに、過去の教訓むなしくやはりココアは熱かった。そして喉がうめくほど美味しかった。
 胃の腑に貯まりこんだ棘も毒も、どろりと熱で溶け流すような、甘くて深みのある味がした。

「おいしい」
「でしょう。愛情の味がするでしょう?」

 まるで自分の手柄のように誇らしげな姿は少し幼く見えた。
 火傷しながら口にしたココアは、美和がよく知る味だった。正確にいえば、よく知る味を思い出させた。それはこの店で三度飲んだココアではなく、彼が何度となく美和に淹れてくれたココアによく似ていた。
 全く同じではないけれど、一口で疲れが吹き飛ぶ甘い甘い、とろみのある舌触りはそっくりで。

 鍋でじっくり煮込むから、時間がかかるんですよね。
 
 美和のもとを去って行った彼は、コーヒーしか飲まない人だった。甘い飲み物が苦手で、砂糖もミルクも入れない。彼の口に入ることは一度もないのに、彼の作るココアはとびきりおいしかった。淹れるココアはいつも一人分。美和が飲むその一杯分だけ。
 美和が自分で作る平坦でサラサラとした味わいとは全然違う。どうしてあんなにおいしいのかとずっと不思議だった。どんな魔法を使っているのかと半ば本気で思っていた。
 なんのことはない、あのココアは、美和のために湯気を立てていたココアは、ぐつぐつと丁寧に鍋で煮込まれていた。時間と手間暇という名の魔法がかかっていた。
 美和はそれをただ飲み下すばかりだった。
  

 愛情の味がするでしょう?

  
 なんとなくの付き合いで、なんとなくの繋がりで。
 ずっとそう思い込んでいたけれど、本当に、そよ風ひとつで散り散りになりそうなそんな頼りない縁が、果たして六年もの歳月保つだろうか。穏やかな小舟にあぐらをかいていたのは美和だけで、彼は同じではなかったかも知れない。なんとなくでは片付けられない、たくさんの尊いものを差し出してくれていたのかも知れない。
 今となっては確かめようのないことだ。美和の手から離れてしまったことだ。
 いくら記憶を巻き戻しても、取り囲む時計は今この時を刻んでいる。
 
 かちこち。かちこち。

 彼が恋したのは、きっと寒さを寄せ付けない人だろう。
 隣の青年がそうしてくれたように、寒がる誰かを見て迷いなくマフラーを巻いてあげられるような、冷え切った芯をあたためてくれるような。
 

 舌の火傷も厭わずに、美和はココアを啜った。口に甘い。胸に苦い。
 睫毛の氷はいくつもいくつも溶けて落ちる。湯気に慰められた頬を、静かに流れていった。
 金髪の彼は何も言わなかった。見られていることは気づいていたが、不思議と気にならなかった。むしろその視線に美和は安心さえした。
  

 コートのポケットの中で携帯が小さく身じろぎした。
 取り出してみると画面に父の名前が光っている。到着を待ちわびて、迎えに出向く旨を知らせるメールだった。
 行儀が悪いのは承知で、美和はコートの袖口で濡れた頬を拭った。目も鼻もひどい有様だろうが、せめて表情くらいは明るくしたかった。
 ココアで温まった身の内から息をひとつ吐き出し、マフラーに手をかける。

「これ、ありがとうございました」
「その必要はありませんよ」
 

 向き直って、マフラーをほどこうとした美和を青年はやんわりと制した。

 
「それはあなたにお返しします」
「え? いえ、そういうわけには、」

 美和は慌てて席から腰を浮かしかけて、はたと違和感に気づく。
 お返しします?
 この場面なら、差し上げます、が言い方として正しいだろう。長けているとは言っても、やはり外国の生まれ。母語ではない言語を完璧に会得するのは難しいのだろうか。
 そんな風に考えている美和をよそに、彼は青い目を細めた。そこだけ春風が訪れてるのではないかと思わせる、慈しむような微笑みを湛えて。
 薄く開いた唇が美和にこう囁きかけた。
 

「覚えてらっしゃいませんか」

 先に僕に声をかけてくださったのは、あなたのほうなんですよ。

「寒くないかと。寂しくないかと」
 

 彼の肌は陶器のように艶めき、宝石を磨くより青い瞳は美しく、金の髪は絹の糸を染めたよう。
 まるで作り物のように。
 まるで人形のように。

 美和はまだ湿っている睫毛を羽ばたかせて、大きく瞬いた。
 
 この店はそう広くはない。
 窓際の列は特に狭く、美和が座っている突き当りは一席しかない。狭いスペースに二人掛けのソファを置いているせいで、他に座席を設ける余裕なんてなかったはずだ。
 記憶の封がするりと剥がれ、美和の脳裏に過去の風景が描き出される。

 どうして忘れていたのだろう。

 青年が座っていた位置に置かれていたのは、アンティークの棚。店の隅々に配置しきれなかった、たくさんの時計が飾られていた。そしてそれに囲まれるように、一体の大きなビスクドールが腰かけていたのを思い出す。
 
 輝く金髪と青い目が印象的な、それはそれは美しい少年人形だった。
 
「あなたは決まってこの席に」
 
 彼の指が窓際の席をさす。美和を見つめる青い目は、懐かしそうに語りかけた。まるで待ちわびた誰かをようやく見つけたように。
 
「あの日もそうでしたね」

 最後にここへ来たのは、大学受験の帰り道。
 試験に手ごたえを感じていた美和は、この町を離れることを確信していた。雪が舞い踊る、冷え込みの厳しい日だったけれど、上京への期待と不安、待ち受ける新しい日々への静かな興奮で胸がいっぱいだった美和はちっとも寒くなどなかった。
 だから、時計に囲まれてたった一人でいる人形にぬくもりを分けてあげたくなったのだ。見るたびに寒そうに、寂しそうに見えた彼に、自分が巻いていた黒いマフラーを譲ってあげたくなったのだ。
 せめて寒くないように。
 

「本当に嬉しくて、温かかった」

 あの時の人形とそっくりの顔をした青年が金の睫毛を震わせた。
 

「その日からずっと僕の慰めとなりました。でも今、それを必要してるのはきっとあなたの方だから」

 かちこち。かちこち。
 眩暈がするほどの時計の群れがいつかと同じ音を奏でている。音色は規則正しく律儀で誠実だ。心の風穴の音を掻き消すように、折り重なって折り重なって美和へと降り積もった。
 白い手が自分に向かって伸びてくる。
 それを美和は瞬きも忘れて陶然と見ていた。ほどけて肩にかかっているだけのマフラーが、ゆったりと美和の首を一周する。間近で見る青い瞳は冬の青空よりも冴えて、一点の濁りもない。
 役目を終えた彼の手が美和の元から去ってゆく。完全に離れてしまう間際、その指先が恭しくマフラーの端をすくいとった。 

「最後にお会いできてよかった。どうかこの道の先は、乾いた凍てつく風ではなく、マフラーのぬくもりが貴女の味方となりますように」

 青年は微笑んで、そのまま口づけを落とした。
 
 途端、シャボン玉が割れるように視界が弾ける。次に美和が目を開けた時には、過去見た通りの景色があった。
 ソファはない。青年の姿もない。代わりに、一体の人形が沢山の時計に埋もれるようにして棚におさまっていた。

 絨毯に足音を吸わせながら、美和のテーブルに店主が近付く。お冷を手に取り、ステンレス製の水差しを慣れた手つきで傾けた。半分ほどになったグラスに水が注がれる。

「あの、ここのお店」

 美和は思わず彼に向って声を出した。
 閉店のお知らせ。
 開きそこねたメニューの裏側に美和が気が付いたのは、たった今。手書きの筆で、これまでのご愛顧を感謝する旨が書かれていた。
 店主は少し寂しそうに笑った。

 
「私も歳なものですから。来週には店をたたみます。お客さんは、うちに来るのは初めてで――」

 そう言いかけた店主は美和が巻いているマフラーに目を止めて、言葉を切った。一瞬だけ人形に目線を向け、すぐに美和の方を見る。くしゃりと目尻の皺を深くした。
 

「……いえ、そうですか。間に合って良かった」

 独り言のようにしみじみと頷いて、店主はそのままテーブルから離れていった。

 窓を隔てて北風が唸る。
 金の髪をした人形はもう囁くことはない。
 

 かちこち。かちこち。

 
 火傷しそうなほどだったカップはすでに熱を失っていた。
 手に触れるとほんのりと、人肌のように温かかい。
 美和はもう一度袖口で目元をこすってから、ゆっくりとココアを飲み干した。




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