ヘ ル シ ー 彼 氏 ケ ン ジ


 

 26回目の誕生日、妹が私にくれたのは体重計だった。
 今年こそ痩せる。
 私が夏を迎えるたびに口にしていたその台詞、気づけば何の成果も出さぬまま10年目に突入しており、それを10年間聞かされづけた妹からの無言の圧力だったのは言うまでもない。

 “ただの体重計じゃないから、きっと長続きするよ☆”

 添えられた手紙の意味深な一言。妹が語尾に「☆」を用いる時はだいたい悪ふざけを含んでいる。
 彼女が言う通り、それは家庭でよく目にするただの体重計ではなかった。

 見た目こそ特に目立った特徴はないが測定の為に乗ると、男性の、おそらく声優と推測される、やたらエエ声で体重や体脂肪を読み上げてくれるのである。そればかりか、太った痩せただのとなれなれしく語り掛けてくるのである。

 キレイ女子に人気の、時に厳しく時に優しく恋人感覚で体重や健康を管理してくれる体重計。その名もヘルシー彼氏シリーズ、だそうだ。
 乙女心をくすぐるイケメンボイス付き。なるほど、無機質に数字が表示されるよりも張り合いが出るのかも知れないが、彼氏に体重をグラム単位で把握される点が乙女心と恐ろしく矛盾してる気がしないでもない。
 好みに合わせて年下や癒し系など様々なラインナップが揃う中、私に贈られたのはよりによって人を選びそうな俺様タイプであった。体重計が。俺様。常に踏みつけられる分際で俺様もへったくれもなかろう。

 俺様は【ケンジ】と名乗った。
 電源を入れたら勝手に自己紹介を始めた。
 女子にターゲットを絞っているだけあり、色気を孕んだ低音はいかにもイケメンといった魅力的なものだったが、いかんせん上から目線の俺様キャラ。基本的に暴言しか吐かない。
 彼はいかんなく己の持ち味を発揮し「昨日より500g増えてんじゃねーか。節制しろブタ」や「200g減ったくらいでいい気になってんじゃねえぞ。明日戻ってたらタダじゃおかねえからな」などと口走って、私の神経を逆なでしてくれたものである。
 教えてほしい。果たしてこれが俺様というやつなのか。ゴロツキとどう違うんだ。
 
 いっそ音声をオフにしてやろうかと検討したこともあった。が、商品のアイデンティティを根本から覆す機能など端から用意されていないようで、ボリュームを下げるくらいしか対抗策はなかった。
 説明書やネットのレビューなどによると、稀にデレて体調を気遣ったり、日々の頑張りをねぎらってくれたりするらしいのだが、そのような甘い言葉、私は一度たりとも頂いたためしがない。恐らく長期間継続して測定した優良ユーザー向けのご褒美なのだろう。何せ私はそこに至る前にくじけてしまったのだから。

 ダイエットとは頂上のない登山、あるいはゴールの見えないマラソンのようなものだ。ある程度体重を落としても、その努力をやめた途端にもとに戻る。三日絶食する瞬発力より、三ヶ月ウォーキングを続ける持久力こそが輝く。とはいえ人は弱い生き物だ。皆そのようにアスリート並みの根性を持っていれば、世に蔓延している飲むだけで痩せる怪しげな薬剤などとうに絶滅している。
 痩せなければ玄関から出られないだとか、明らかに入らないウエディングドレスを選んでしまっただとか、そういう切迫した事情でもない限り、やる気は持続しない。幸いか不幸か、現時点で玄関に遮られるほど私の横幅は広くなく、ウエディングの鐘を鳴らす予定もないゆえ、乏しい情熱は途絶えてしまった。
 言い訳をすれば私も最初から諦めていたわけではない。それなりに努力も重ねていたのである。
 だけれども、大好きなメンチカツを絶ち、ウォーキングやストレッチに日々精を出し、やっと一キロ落ちたと喜んだところで、飲み会が二晩続いたらどうでも良くなる。
 飲んだシメはラーメンなどというふざけた文化を生んだ奴はいったい誰なんだ。天才か。うまいんだよちくしょう。
 せめて半分残そうという決意は油膜のはった熱々のスープにとけ消え、代償として翌日胃もたれと体重増加に見舞われた。一ヶ月の地道な努力など一杯のラーメンで水泡に帰す。やってられない。
さほど根性と明確な目標がなかった私はあっという間にストイックな日々を捨てた。当然、歯ぎしりしながら使っていた俺様体重計にも近付かなくなった。


 それから二週間もした頃だっただろうか。
「おい」
 夜更け、自分以外誰もいないはずの部屋で、男の声がした。それも私が座っているソファの下から。心臓が飛び跳ねるように鳴り、ドッと冷や汗が噴出したが、次の瞬間それがすうっと静まった。
「いつまでサボってるつもりだ」
 聞き覚えのある声だった。かつては毎日のように聞いていた高慢ちきな物言い。
 体重計だ。
 使用しなくなってから、ソファの下の押し込んでいたのをようやく私は思い出し、そして納得もした。 ああ、そういう仕様か、と。
 元々ダイエットを目的とした製品だ。私と同じように三日坊主気質の人間はいくらでもいる。計測を一定期間怠ると、警告を発する設定になっているのだろう。声は途切れずに続いた。
「無視してんじゃねえ!」
 なかなか粘るなケンジ。そして柄が悪いな。
 久しぶりに聞く俺様のケンジの声は、ただのプログラムが喋っているとは思えないほどリアルで、真に迫っていた。まるで本物の男性が間近で怒号を上げているような。プロの仕事とは全く大したものだ。
 だがケンジよ、私とお前は終わった仲。あの減量の日々を忘れ、ただの体重計に戻るがいい……
 私がテレビの音量を上げようとリモコンを手に取った時だ。
「真樹! 聞いてんのか!」
「えっ」 
 聞こえたのは私の名前だった。起動する際、身長や年齢を入力したものの、名前を登録した覚えはない。すぐに飛び降りて、ソファの下から体重計を引っ張り出した。薄ら埃がつもった以外に、変わった点は一つもない。のだが。
「チッおせえんだよ」
 私の顔をみるなり、吐き捨てるように言った。体重計が。舌打ちした。体重計が。
「あんな狭苦しい場所に押し込みやがって覚えてろ」
「うわ、うわ、喋ってる、しゃしゃしゃ喋ってる」
「うるせえな元から喋ってただろうが」
 そりゃそうだ。いやそうでなくて。
 昔、電話をかけると「私リカちゃん」と聞いてもいないことを一方的に喋り倒してくるおもちゃがあった。ケンジはおもちゃではないし、その時よりずっとテクノロジーは進んでいるが、会話が成立しないという点においては共通していたはずだ。
 コール&レスポンス機能があるなんて、知らなかったし聞いてない。
 しまいこんだ取説を引っ張り出して、隅から隅までめくってみるも、それらしい記述は一切見当たらなかった。ただ「アナタのヘルシーライフを素敵な彼氏が盛り上げてくれるヨ!」と能天気な文言が書かれているのみである。いくらなんでも盛り上げすぎだろ!
「ったく、だらだらした生活送りやがって。お前は俺様がいねえとダメな女だな」
 ケンジは四角く平べったい姿とは思えない気だるげな声を出した。
「早く来いよ。お前は大人しく俺に乗っかってりゃいいんだよ」
 まあ体重計だから。体重を計ることが己の存在意義なのだから熱心にすすめもしよう。とはいえ私も誘われたからといってほいほいと男に身を任せる安い女ではない。
「やだ」
「あ?」
「もうダイエットやめたし今更体重なんて知りたくない」
「なんだとコラァ! 豚の分際で生意気いってんじゃねえぞ! 身の程知りやがれ!」
「身の程知った方がいいのはどっちだコラァ! もう一回そこ入っとけオラァ!」
 私はケンジを足蹴にしてソファの下に押し込んだ。まだ何事かギャアギャアわめいていたようだったが、やかましいので厚手の毛布をかぶせてやり過ごした。
 
 何かトラブルに見舞われた時は、私はネットに頼ることにしている。どんなにピンポイントに思える悩みでも必ず某知恵袋には境遇を同じくする者がおり、それに対して回答を与える賢者のごとき存在がいるからである。
 今回も私はネットに救いを求め【ケンジ】【喋る】【体重計】で何度か検索を試みたが、私と同じようなバグや不具合を訴えているケースは一件もなかった。
 ググれどもググれども、俺様ケンジの品のない言動と時折見せる優しさに完全に籠絡された御婦人方による熱い呟きや愛に満ちたブログ記事などが引っかかるのみである。みんな落ち着くんだ。体重計だぞそいつは。
 とにかく、私の体重計が極めてレアケースであって、他のケンジに関しては道を誤ることなく、粛々と職務をこなしているらしい。
 古今東西、無機物がいつしか魂を得る話は珍しくもない。時を経ると人形の髪は伸びるし、骨格標本は踊るし、夜は墓場で運動会である。されど体重計はいかがなものか。しかもさほど長い付き合いでもなければ、意思が宿るほど固い絆があったようにも思えない。一ヶ月ちょっと、重さを計ってもらった浅い仲にすぎないのに何なんだこれは。何なんだケンジ。真夏の夜の悪い夢か。

 しかし夢ではなかった。一夜明けても二夜明けても、ケンジがただの体重計に戻ることも、沈黙することもなかった。計測時にのみ聞こえていた荒っぽい美声は、今や四六時中私に話しかけてくる。
「計れ」
「やだ」
「計れよ」
「やだよ」
 つるりとしたプラスチックの光沢が眩しいダークブルー。丸みを帯びた四角いフォルムは女性に安心感と緊張感を与えるにふさわしい。ただし、無駄口をたたかなければ。
「いつから計ってねえと思ってんだ、自分の体重把握しねえのはデブの入り口だぞ」
「まだ一ヶ月経ってないからセーフだ!」
「油断した生活が油断したカラダを作るんだバカが」
 いやなことを言う男だ。いや体重計だ。
 私はじろりと横でふんぞり返っている(ように見える)平べったい物体を睨んだ。
 当初、ケンジの定位置はソファの下で、そこから出す気など私にはなかった。しかし、狭いだの暗いだの埃っぽいだのと延々と扱いの悪さを訴え、それがまたやかましく、根負けした私は日の当たるリビングの一角を彼に与えた。少しは静かになるかと思いきや、そうでもなかった。抗議がなくなっただけで騒がしいのは同じなのだ。
「わかったなら早く計測しろ」
 当人の減量ブームは去ったというのに、体重計の本能か、未だケンジの情熱は衰えない。毎日毎日飽きもせず、しつこく食い下がる。何かにつけて私の意志薄弱さを詰り、執拗に体重を計らせようとするのである。
「おい真樹」
 無視していると、今まさに私が食べようとしているアイスクリームのカロリーと思われる数字が背中に飛んできた。
 287キロカロリー。
 こんな小さいなりにそんな熱量が? と一瞬慄いたものの、構わずかじりつく。脂質20g! と脅しじみたケンジの声が聞こえたが、今更知ったことか。
 体重計に乗ることのみならず、彼は食事に関してもとかく口うるさい。私が食べたもの全て把握し、カロリー計算しなければいけない使命感にとらわれている。
 朝食を食べずに家を出れば体に悪いと小言を言い、夕食にカツ丼を作れば食いすぎだと罵った。自分の監視下にない昼については特に敏感で、帰るなり「何食った?」「野菜はとったか?」など田舎の母よりしつこく問いただす。おかげで日々喧嘩が絶えない。一人暮らしなのに。
 この間など、大家さんにやんわり「お友達呼ぶのはいいけど、夜は少し控えてね?」と釘をさされてしまい、連日男を連れ込んでるとご近所に思われていることが判明した。濡れ衣である。とはいえ、違います体重計なんです、と言いつのったところで容疑が晴れるどころか「男好き」から「病んでる人」にレッテルが悪化するのは明らかなので、気を付けます……と暗い目で頷くだけに留めた。
「アイスは一週間に一個にしろ」
「それはできない相談だね。これは日々のご褒美」
「豚の言い訳はきいてねえ」
「豚っていうな」
「ポーク」
「黙れ」

 口の減らない体重計だ。
 おはようからおやすみまで、飽くことなく健康を語り、痩身を勧め、自堕落を嘆く。もちろん口汚く。
 奴の望み通り、体重を計らせてやれば多少は大人しくなるのだろうか。
 しかし私も変に負けず嫌いというか、押すなよ押すなよと言われれば押したくなるのが人間というものであり、あまりしつこく乗れと迫られれば、かえって頑なになってしまうものだ。
 とはいえ体重計に仕事を与えないのも酷なのかも知れない。ものを計るという存在価値を失えば、ただの喋る板切れになってしまう。
 そう思って、丸ごと買ってきたかぼちゃを乗せてやったところ、ケンジは感謝するどころかデジタルの文字盤を点滅させて激昂した。
「てめえふざけんな! 俺様にかぼちゃなんて計らせるんじゃねえ!」
 俺様という、やや痛い一人称が飛び出してしまうほど気に障ったようだった。よかれと思ったのにうまくいかないものである。ただ、体重計の性か、怒鳴りながらも「1.2キログラム」と正確に計測していたのは流石だと思った。

 かぼちゃを計るというキッチンスケール扱いがプライドに触ったのか、ケンジの計測に対するますます執着は強くなってしまった。テレビを見ながらちょっと一杯、と思っていると、背後から計れ計れと夏場のセミより騒ぎ立てる。私は缶ビールのプルタブに手をかけながらため息を吐いた。
「もういいじゃんよー。だいぶ日にちも空いたし。今更さあ」
 問題ねえ、とケンジは自信たっぷりに言った。
「お前の体重データは残してある」
 データが残っているからこそ嫌なのだ。
 ヘルシー彼氏シリーズは妙に高機能で、乗るだけで記録され、増減が一目でわかるグラフ表示まで備わっている。
 最後にケンジに乗ったのは、飲み会の前日。
 私がまだダイエットに心折れていない時であり、また最も軽い体重を計測していた頃である。なだらかに下がっていったグラフの、もっとも低い位置。私のベスト記録と言えよう。
 あれから私といえば、ヨガもしていなければ腹筋も怠っている。加えて、ナッツやらドライフルーツだの美容に良いとされる食品に傾倒していた反動か、キムチをつまみに毎晩缶ビール2本を空ける生活を10日ほど続けてしまった。乗らずともわかる、体重は間違いなく増加の一途をたどっている。
 数字は嘘をつかない。容赦もない。私は残酷な現実など知りたくないし、栄光の後に負の記録など刻みたくない。
「いーやーだー。もう数字に振り回される生活に疲れたのー100g減った増えたで一喜一憂したくないのー」
「一ヶ月やそこらで疲れたもクソもあるか」
「充分だよ一ヶ月。食事楽しくない、修行僧みたいな生活続かないよ」
「いっぺんにやろうとするからパンクするんだ。朝昼は普通にとって夕食を控えめにする、とかいくらでもやりようはあるだろ。頭も根性も足りねえ奴だな」
 正論は往々にして人を怒らせる。
「そうだよ足りませんよ! 馬鹿な豚でけっこうだよ! さけるチーズうまい!」
 倍の威力で怒鳴り返してくるかと思いきや、ケンジは普段よりも低く静かな音を返した。
「お前は俺の言うとおりにしてればいいんだよ」
 一瞬どきっとしたことにどきっとした。どきっとしたというかぎょっとした。最終的にカッと来た。
「ちょ、ちょっと体重はかったくらいで彼氏面しないでよね!」
「彼氏が彼氏面して何が悪いんだ!? あァ!?」
「凄まないでよ平面!」
 あくる日、出勤途中に大家さんにつかまり、騒音についてまたもマイルドな口調での忠告を頂いた。


 そうこうしている内に10日ほど過ぎた。
 その日私は疲れ果てていた。電車が止まり、タクシーも拾えず、徒歩で帰宅せざる得なくなったせいだ。強制的ウォーキングでさぞやカロリーを消費したことだろう。
 居間で待つケンジに「ただいま」と知らせる元気もなく、私は乱暴にパンプスを脱いだ。頭の中は、疲れた眠い空腹の三本立てのみ。
 明りもつけず、暗がりのまま重い足を我が家に踏み入れ ―――― すぐにハッと目を疑った。
 居間にいるはずのケンジが私の足元、ちょうど踏み出した右足の下に見えた。
「何でここに!」
 思わずのけぞり、一歩後退すると、その下がった足を追うようにして、スーッとケンジが動いた。
 いま一度繰り返す。スーッと。ケンジが。動いた。
「うっわああああ」
 私は疲労も忘れて飛び上がった。
 怪奇! 動き回る体重計! 
 驚きついでにケンジを思い切り踏みそうになり、慌ててよけた。危ない。どさくさに紛れて計測されるところだった。
「チッ」
 暗がりで舌打ちが響く。ケンジは「あと少しだったのに」と悔しさをにじませながら、床の上を滑り、華麗に一回転を披露しながら私の目の前で止まった。スムーズな動きは無駄がなく、そして音もない。
「ななな何で動いてんのどういうことなの」
「いやずっと動きたかったんだけどよ。さっきちょっと試しにやってみたら動けた」
「ちょっと試しに、くらいで実現するって何? 全知全能?」
「お前とは出来が違うからな」
「メイドインチャイナが何を得意げに……」
 ケンジは「いいからさっさと入れよ」(私の家である)と言いながら、先導でもするように居間へと移動していった。その勝手知ったるという後姿を半ばあっけにとられる形で私は見送った。
 動いてる。動いてるよ自分の意思で。すいすいと障害物をよけながら。
 昨日まで、口ばかりは達者だが地蔵のように不動だったとは思えない軽やかさ。
 生まれた赤子でさえ立って歩くのは最低一年かかるというのに、ケンジときたらわずか一ヶ月で喋るわ動くわ、仕事が早すぎるのではないか。その異例の出世が、「私の体重を計りたい」一心によるものだとしたらうっすらと寒いものが走る。
 もしかして、私、祟られてる?
 と、慄いてみたところで、自由自在に喋る時点で十分怪奇であり、今更取り乱す何物もない。夕食の焼うどんをすすっている内に私の動揺はほどなく消えた。

 動揺は消えたが、私を取り巻く状況は悪化した。
 これまでは計れ計れという騒音を無視さえすれば良かったが、今は言葉ばかりではなく向こうからやって来る。あまつさえ足元に滑り込んでくる。ぼんやりと歩いていると、踏んでしまう危険が家中そこかしこに潜んでいるのである。地雷原か。
 今まで以上に厳しい監視の目が光り、一時間以上だらしなく横になっているとケンジは警告した。豚になるぞ! と。それでも私が反応しなければ、行き止まりにぶつかり続けるラジコンのようにがつがつと私に衝突を繰り返してくる。
 あれを食うなこれを食えよく噛め猫背になるなヨガをしろ腹筋はまだか寝る前にストレッチを。
「気が休まらない!」
 私のまっとうな訴えに対してのケンジの返答は以下の通りである。
「その緊張感が女を磨くんだぜ」
 蹴り飛ばしたくなった私が悪いのか、OL御用達の女性誌みたいな台詞を吐いたケンジが悪いのか。とりあえず蹴りを放ってしまったが、機動力を得たケンジはそれをサイドステップで華麗にかわした。
 ケンジの すばやさが あがった! 
 私の うっぷん が たまった!
 が、これ以上大家さんに目をつけられると住みづらくなるので、もう暴れたり声を荒げたりはしない。ケンジが猛スピードで進化を遂げるように、私も学習するのである。
 一晩風呂場に閉じ込める刑で手を打った。

 喋って動けるケンジの前に、私の怠惰な生活はじわじわと健康的なものへと塗り替えられていった。
 いちいち30cm四方の物体がチョロQみたいな加速度で突っ込んで来られたら無視を続けるのは難しい。それに、続けてみるとよく眠れることを知ったので、ストレッチは習慣として欠かさず行うようになった。ダイエットうんぬん以前に暑さでこってりしたものを避けるようになり揚げ物を食べる機会も減った。期せずしてヘルシーライフである。
 が、体重を計測するかどうかはまた別の話。いくらせっつかれても私はケンジを体重計として一度たりとも活用することはなかった。

 その夜は寝苦しく、寝ぼけ眼をこすりながらトイレに向かったのは草木も眠る丑三つ時。
 用を足し、ふらふら出てきた私をケンジが待ち構えていた。厠に向かう女性のあとをつけるとは紳士のすることではない。私の軽蔑の眼差しをものともせず、ケンジはワイルドにこう言った。
「乗れよ」
 美声の効果か、一瞬まぶたの裏にバイクにまたがるイケメンが映し出された。瞬く間に妄想は消え、暗がりで待機する体重計だけが現実に残る。
「乗りません」
 ナンパをかわしてベッドに向かう私の横を、ケンジはゆっくりと並走してくる。歩調に合わせてぴたりとついてくるその動きは不審車両。
「そろそろ観念して、一回、まずは一回乗ってみろよ」
「こんな深夜に体重計れって言われてもね」
 ケンジが興奮気味に突っ込んでくる。
「朝なら計るかっ?」
「いや計らん」
「何時でも同じじゃねえか」
「まあそうなんだけど」
「いつだろうがお前は人の言うことなんか聞きゃあしねえ」
「うん」
 草木も眠る深夜二時に私が眠くない筈がない。聞き飽きたお説教より眠気の方がどうしても勝る。私はのろのろ歩きながら、聞きようによっては素直な、ともすれば生気のない相槌を打った。
「よく噛んで食えっていってんのに流し込むように食いやがって」
「うんうん」
「ぶくぶく太って出荷されても知らねえからな」
「はいはい」
「だいたいお前がその気にならなきゃ、」
 一度途切れた。 
「俺、いる意味ねえだろ」
 静まり返った夜の気配につられたせいか、その声はいつもより細く響いた。


 
 ケンジの様子が妙だ。
 一言でいうと大人しい。
 いや相変わらず口うるさく、世の体重計と比較すれば十分にやかましい存在なのだが、鬱陶しいくらい騒々しかった以前のことを思うと、トーンダウンした印象は否めない。
 今日もそうだ。動けるようになって以来、私の帰宅を知るや否や、忠犬のように吹っ飛んできたというのに、ドアを開けても迎えはなかった。妙に思って探して見ると、台所の真ん中という妙な位置で静止しているのを見つけた。
「ケンジ? なんでそんなところにいるの」
「……あ、ああ悪い。寝てた」
「寝るとかあるんだ……」
 俺だって疲れるんだよと言いながら、まさに寝起きにふさわしいのっそりとした動作で移動していった。その後ろ姿にどこか衰えを感じた。
 思えば、徐々に動作や反応が鈍くなってきているような気がする。 
 昨日も夜10時以降にカレーせんべいを食べようとした私の足首に体当たりしてきたものの、以前ほどのキレがなかった。どうも覇気に欠ける。体重計に覇気が必要かどうかはこの際置いておくとして。
 とても私に頭突きを食らわしまくっていたDV野郎とは思えないではないか。憎らしいほどの俊敏さで私の蹴りをよけてみせたケンジはどこに行ってしまったのか。
 別に心配しているわけではない。これまで散々振り回されてきたのだから大人しいなら大人しいで結構、かえって助かる。
 ただ、同じ屋根の下にいる以上、気にかかるというか捨て置けないというか。どこか悪いのではないかと思って落ち着かないというか。
 飼う気がなかった動物に情が移るとはこういうことなのか?
 相手は子犬でも仔猫でもなく体重計ですぞ体重計。

 困ったときはWEBの海に飛び込むが吉である。例のごとく私はネットでケンジの不具合について検索することにした。もしかして販売元の公式サイトに情報が追加更新されているかも知れない。
 しかしページに追加されていたのは機能がパワーアップしたシリーズの新製品情報のみであった。
 ばかやろうと言いたい。新モデルの発表をしている暇があったら、旧製品の致命的なバグについて一言お詫びなり修正なりをだな。
 見落としはないかと熱心に眺めていたせいで、気配に気づかなかった。悪態をつきつつマウスをクリックしている私の後ろから、ふいに声がした。
「次の男漁りかよ」
 すぐ背後にケンジが佇んでいた。どこに目がついているか知れないのに、何故かその時はPCの画面に視線が注がれているのだとわかった。
「は? 男?」
 ケンジの視線をたどって顔を正面に戻せば、追加された三名の美男子がモニター上で微笑んでいる。もちろん全員体重計である。サトシ、エルビス、アーブラハムだそうだ。インターナショナル。
 単なる情報収集なのだが、ケンジの目には新たな体重計を物色しているように映ったのだろうか。私は再びケンジを振り返った。
「なんか勘違いしてない?」
 ケンジの声はどこか投げやりなものだった。
「下手な嘘はいい。エルビスに鞍替えするつもりなんだろ」
「なんでエルビス!? エルビス買わねーよ!」
「じゃあアーブラハムか? やめとけあいつはお前には向かねえ。アーブラハムにするくらいならヨウスケの方がましだ」
 誰だよ! 
 というか何の話なんだ。私に購入の予定はないし、体重計を複数集める趣味もない。
「体重計なんて買わないっつうの! 必要ないし」
 ケンジが一台あれば必要ない、という台詞はこっ恥ずかしかったので省いた。それをどうとらえたのか、ケンジは言葉につまり、そして声を震わせた。
「なっ……お前……まさか」
 デジタルの表示画面が動揺を現すように激しく点灯している。絞り出すような息が吐かれた。
「よその奴(体重計)に計らせてんのか……」
「……ん?」
 理解に時間を要している私を置き去りにして、ケンジは痛々しく笑いながら続ける。
「ハ、そうか。そういうことか……俺はお払い箱ってわけか」
「いや待ってちょっと待って、」
 何か誤解があるようだが、ケンジは聞く耳を持とうとせず、自分の言葉だけで全ての間を埋めてしまう。
「俺だって馬鹿じゃねえ。薄々気づいてたさ」
「何をですか」
「道理で最近……帰りが遅かったわけだ」
「10割残業だよ」
 繁忙期なのである。私だって早く帰りたいが、組織に逆らえないのが社会人というものだろう。
 合間に投げかける声も、ケンジにはまるで届いていないようだった。これは会話ではない。独り言と独り言だ。返事を必要としていない相手には、黙るしかない。ケンジも口を閉ざし、束の間沈黙が落ちた。
「……真樹」
 のしかかるような重い声。
 咄嗟に身構える。
「寝る前にストレッチしろよ。いつもより念入りにだ」
「お、おう?」
 盛大なる肩すかしを食らっている私を残し、ケンジは踵を返し去って行った。
 なんなんだ。本当になんなんだ。
 去ってゆく速度はやはりゆっくりで、追いつくのはたやすいことだったが、もう蹴り上げてやろうという気は起こらなかった。網戸から聞こえる虫の声がやけに耳に騒がしかった。

 それからケンジはよく眠るようになった。
 声をかければ答えるし、私への指導も怠らなかったが、気が付くと窓辺でまどろんでいることが多くなった。ちなみに、寝てるからとテレビを消すと、見てたんだから消すなよ、と途端に起きるのは人も機械も同じようで、リモコンで消すたびケンジは飛び起きた。眠るのが悪いわけではない。ただよく眠るということは、休息を求めているということに他ならない。
 私はかつて実家で飼っていた老いた猫を思い出した。一日のほとんどを寝て過ごし、虫が止まるほど動作は鈍くなり、やがて眠るように死んだ。
 ケンジは猫でも犬でもないのでまさかとは思うが、気がかりではある。
 しかし私は前述した通り繁忙期で、ケンジにばかりかまけている余裕はなかった。毎日毎日早めに出社し、日付が変わる前に帰路につければ御の字という、いわゆるひとつの社畜と成り下がっていた。救いは残業代が出ることと、忙しさに期限があることだ。この時期をしのげば、再び人らしい生活が約束されている。もし残業代がサービスという名のもとに消失していたら、迷わず労働基準局に旗を振りながら突っ込んでやろう。
 そう思っていたら、その日は夏が終わる前に来た。
  
 
「真樹」
 蒸し暑い夜だった。
 忙しさのピークが過ぎ、久しぶりに終電を逃すことなく帰宅した私を、ケンジはそばに呼びつけた。その神妙な様子に胸騒ぎを覚え、私は素直にケンジの目の前に腰を下ろした。
「お前ももう勘付いてるだろうが、俺はもう駄目だ」
 間を置くことなくケンジは言った。
 私はあまり驚かなかった。予感するなという方が無理なくらいに、思い当たる節はいくらでもあった。
「寿命が早すぎるだろ? 俺はたぶん不良品なんだ」
 ケンジは取り乱すでもなく、思いのほか淡々としていた。
「メーカー交換に出せって言うべきだったな。……でも言えなかった」
 静かだ。あれほど姦しく鳴いていた虫の声も今日は聞こえない。私はただ頷くだけしかできず、ケンジが発する音だけが空気を揺らしていた。 
「俺がなんとかしてやりたかった。でなきゃ、だらしなくて意志薄弱かつ要領の悪いお前みたいな女、一生ダメなまんまだろ」
 つい頷きが途中で止まる。
 今際の際とはいえ、ちょっと言い過ぎじゃないですかね。
「でも本当は、自分でもわかってんだ。俺みたいな初期不良、いくら居座ったところで、役に立たねえってことは」
 ところどころ掠れて響く。壊れる寸前の機械を思わせるような不安定な音だった。
「だから真樹がよその男(体重計)を選んでも、俺には口を出す権利なんかないんだよな」
 悪かったな。と薄く笑うのが聞こえた。
 ケンジは馬鹿なやつだ。何もわかっていない。増えた数字を認めたくない往生際の悪い私が、強引でも世話焼きでも口やかましくもない、単なる体重計になんて乗るわけがない。
 プライドだけ無駄に高いこの私が体重計に乗る時、それは痩せたと確信が持てた時だ。そしてその結果を知らしめる相手は、私よりもダイエットに熱心で私より諦めが悪く、私より私の体重に執着した体重計でなくてはならない。
「最後にお前の重み……計らせてくれ」
 私は立ち上がり、意を決してケンジの上に足を踏み出した。が、寸前で思い直し、薄い半そでのカーディガンを脱ぎ、髪をまとめていた金属製のバレッタを外し、靴下も脱いだ。こんな時になんだが、いやこんな時だからこそ。1gでも軽くあれ。
 持ち上げた右足のつまさきから、慎重に下ろす。
 久しぶりのケンジの感触は裸足に少しだけひやりとしていた。
 ふう、と言ったのか、はぁ、と吐いたのか。悦びを含んだ息が足元でかすかに震えたあと、デジタル表示とともに体重の数値が読み上げられる。
「―――前回測定よりマイナス2.4キロ」
「よっしゃ!」
 私はガッツポーズを作った。
 言いつけ通りストレッチも続けたし、ビールの本数も減らした。何より連日の激務のせいで、しっかり食事をとる暇もなく、当然間食などに惑われる余裕もない。痩せることはあってもまず肥えることはないだろうと踏んでいた。ジャストサイズだった職場の制服のスカートがゆるくなっていたのも私に自信を与えていた。
 やった。やったよ。やりましたよケンジ。どうですかケンジ。
 私は若干興奮で息を荒くしながらケンジを見下ろした。
「ケンジほら私痩せ、――」
「体脂肪プラス1.1%」
 えっ。
 えっ?
「ちょっと何言ってるか聞こえませんね」
 私のリクエストにお応えして、ケンジは繰り返した。
「体脂肪プラス1.1%」
 鼓動と冷蔵庫の作動音以外すべてが沈黙した。
 一拍遅れで戦慄が走る。
「……うわー! なんで! なんで増えてんの!」 
 私は崩れ落ちるようにしてケンジに縋りついた。
「食べてないよ! ぜんぜん食べてないのに!」
「食べてねーからだよ。たんぱく質とらなかったなバカ」
 ここ最近、口にしたものと言えば、菓子パン、おにぎり、飲むゼリーエトセトラエトセトラ。いずれも仕事の合間に食べられる簡単なものばかり。量もカロリーも控えめなつもりだった。
「不規則な生活で体重が落ちると、一見痩せたようにみえるが体脂肪が増えて筋肉が落ちているパターンが多い。太りやすい体の第一歩だ」
「まじで!」
 騙された! 外側だけ落ちたようにみせかけた自分の体に騙された! 悪質なフェイントをかけられた! ついでにケンジが死に際とは思えないくらい喋る!
「説明書巻末のダイエットの基礎を熟読……しろ…」
 本懐を遂げて満足したのか、最後まで劣等生だった私に失望したのか、体力の限界を迎えたか、流暢だったケンジの声が急にか細くなった。
「真樹」
「ケンジ」
 ケンジの手を握りしめたかったのだが、手の部分がどこにあたるか見当もつかないため、ビート版の要領で先端をつかんだ。
「アーブラハムはやめとけよ」
「だから買わねえよ!」
 声は途切れ途切れになり、どんどんと遠のいていく。もう耳を近づけて一文字一文字拾わなければ聞き取ることも難しい。鼓膜がケンジの最後の言葉を吸い込んで震える。
 俺がいなくなっても。
「しっかり……頑張れよ……」
 表示された数字が薄くなり、消えかかり、またうっすらと現れる。それ何度も繰り返し、儚い蛍の光のように瞬いた。やがて、表示はまっさらに還る。あ、と思った時、再び数字が浮かび現れ、ゆっくりと等間隔で点滅した。五回の点滅は、おそらく「や・せ・や・が・れ」のサイン。
「ケンジー!」
 それからケンジは完全に眠りについた。
 内側の静寂とは裏腹に、窓の外から空を叩くような音がする。どこかで花火が上がっている。どおんどおんと賑やかな夏の音だ。いつしか花火の音に混じって、インターホンが鳴り始めた。大家さんだろうなと花火を聞きながら思う。
 夏である。ダイエットの季節である。更に引っ越しの季節でもある、と私は体重計に乗ったまま予感した。



 翌日、ケンジは電池を入れ替えたら何事もなかったように直った。




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