長 く 短 い 放 課 後 の 詩 集






 座る席は決まっている。
 日当たりが良すぎて太陽に炙られることも、冬は暖房から見放されることもない、入り口から遠ざかった奥から二番目の位置。カウンターに背を向ける形になっているせいで、よほど豪快にいびきでもかかない限りうたた寝に身をゆだねても咎められることはない。
 テスト前のせいだろうか、幸い今日は出入りする生徒も多く、耳や視界の隅を適度に刺激されるせいで眠気はやって来なかった。睡魔が来ないイコールやる気に満ちている、という図式が通用すればいいのだが、そううまくは出来ていないのが悩ましい。
 開くでもないテキストを肘置きにして、しばし知佳はぼんやりと見慣れた図書室を眺めた。
 古びた本棚には日に焼けた背表紙と真新しい質感の本が整然と並び、遮光性のまるでない薄っぺらいカーテンが窓を頼りなくも覆っている。どんな雑な人間が貼りつけたのか、返却期日を守りましょう、のポスターは今日も微笑ましいくらい斜めに傾いていた。
 いずれも目に馴染んだいつもの風景。
 その視界の隅で、男子生徒が一人本に目を落としている。こちらの角度からは俯いた表情まで伺えないものの、猫背とは縁のない美しい姿勢が彼自身の品の良さを伝えていた。ただ腰かけて本を読むだけの姿が、卑怯なほど絵になる。
 穴があくほど見つめていたわけでもないのに気取られてしまうのは、知佳の視線が無防備だったせいか、それとも相手の勘の良さか。読書に勤しんでいた顔が持ち上がった。前髪が流れて、見目の良い造作が露わになる。これではまるで盗み見だ。ばつの悪い思いをしながらも知佳が目で挨拶すると、彼も薄く笑って応えた。
 これもまた、いつもの風景。
 
 
 特別な事情がない限り、放課後の一時間半を図書室で過ごすのが知佳の日課だ。
 読書をする為ではないし、図書委員というわけでもない。
 では何故居残るかといえば理由は二つある。
 まず交通手段の問題。
 知佳は通学にバスを利用しているのだが、本数が限られている為に終業直後の車内はいち早く帰ろうとする生徒たちでごった返す。席に座れる座れない以前の問題で、降車ボタンもろくに押せない。その様相は美しく言えば押し花、見たまま言うなら洗濯ネット未使用の洗濯物。それでも入学したての頃は諦めずに健闘していたが、どうにも体力の消耗激しく、何度となくもみくちゃにされる内に気力が尽きた。
 もうひとつは己の学力。
 合格したい一心で知佳が学業に精を出していたのは受験の時まで。いざ高校に入ってしまうと、気が抜けたのかろくに机に向かわなくなってしまった。とかく、家には誘惑が多いのである。好奇心をつつくゲームはあるし眠気を甘やかしてくれる寝床もあるし、更には歳の離れた弟が子犬のごとくにじゃれついてくる。とても勉学に集中できる環境ではないが、これ以上成績が落ちるのは望ましくない。怠け心が顔を出さない、適度に集中できる場所がいる。
 つまり、図書室はうってつけの空間だった。
 
 「時間だよ」
 
 背後に吐息に近い声がして、はっと我に返る。振り向けば、さっきまで斜め前にあった顔がほのかに微笑んでいた。彼がとんとんとさして見せた腕時計に、乗り込むバスの五分前の時刻が表示されている。
 
 「あっ」
 
 知佳は慌ててノートや教科書を片して立ち上がった。乱暴にカバンに押し込んだあと、お礼を言うために口を大きく開きかけ、直後に思いとどまる。図書室では静粛に。
 去り際、口だけ動かして無音の「ありがとうございます」を伝えた知佳に、その人はひらひらと手を小さく振った。ちらりと目に入った小難しそうな本の表紙とは正反対に、彼の表情は和やかだった。
  
  
  
 知佳が彼について知り得ていることは少ない。
 本が好きなことと、ネクタイの色から察するに一つ先輩であるということと、“いつき”という名前のみ。
 その名前だって、見知らぬ女子にそう呼ばれていた場面をたまたま見かけただけで、果たしてそれが彼の姓なのか名前なのかは定かではない。つまるところ、ほとんど知らない。
 図書室でしか顔を合わせていないのだから、当然と言えば当然と言える。
 彼――いつきは知佳よりも古い図書室の住人だ。
 同じ席に腰かけて、いつも静かに本を開いている。いつから彼がそうしているのかはわからないが、知佳が通い始めた頃には、すでにその姿はあった。
 落ち着いた佇まいは図書室という空間にふさわしく、雰囲気に溶け込んでいた。溶け込みすぎて、触れることを許されない一枚の絵画のようだった。だから、綺麗な顔だな、と最初に知佳が抱いた感想は、男の人に対するものというより美術品へのそれに近かった。
 
 初めて会話を交わしたのは、図書室通いがすっかりと習慣となって馴染んだ頃。月めくりの暦を二枚ほど破った時期になる。
 知佳が迂闊にも家の鍵を持たずに登校してしまった日だった。
 鍵を忘れたと連絡を入れてみると、母はすでに弟を連れて出かけたあとで、予定の帰宅時間は知佳のそれより遅かった。いつものバスでは家の前で待ちぼうけを食らうことになる。仕方なく、バスを一本遅らせることにした。
 いつもなら席を立ってる時間なのにな。
 問題集の解答欄を適当に埋めながら、知佳が壁の掛け時計を睨んでいた時だ。
――今日はまだ帰らないの?
 警戒させない為だろうか。間近というほどではない斜め後ろの位置から、そっと落ち着いた声で知佳を振り向かせた。
 おかげでびっくりして飛び上がることはなかったが、話しかけられた事実と、思ったよりも高かった彼の背丈の二つは、知佳を動じさせるに値するもので。
 結果、「うむ」という限りなくエラーに近い返事が飛び出してしまった。猛将の受け答えか。この件については今でも知佳は後悔している。
 いきなりの武士の出現に、いつきは吹き出しこそしなかったが、整えられた笑みの端、口元が若干ひくと震えていた。彼の笑う姿はすでに何度か目にしている。けれどそれはいつも目にする大人びた笑みとは違って、近しい人に見せるような幼い表情だった。完璧な図形の角が取れ、丸みを帯びて柔らかくなる。恐らくそれは親しみという感覚だったのだろう。
 図書室の風景の一部のように思っていた彼の輪郭が、その時少し濃くなった。
 
 一度でも口きけば、互いを隔てていた壁は薄くなり低くなる。
 図書室の仲間として認定されたのか、以来、時折いつきは知佳に声をかけてくるようになった。知佳にも、級友のように気安くとはいかないまでも、「うむ」以外の反応を返す余裕が生まれた。
 交わす言葉は短く簡素で、いずれも風が吹けば掻き消えてしまうほど他愛ない。それでも勉強するだけが目的だった頃より、図書室で過ごす時間が上等なものになった。

 
  
 
 
 その日、知佳は指定席を離れて本棚の間をさまよっていた。
 学校としての歴史が古い分、蔵書も多い。毎日のように通い慣れた図書室とはいえ、時間の殆どを机で椅子の上で過ごしているせいで、いざ探すとなるとどこに何があるかさっぱりわからない。
 一心に背表紙だけを追っていたから、知佳は後ろに人がいるのに気付かなかった。
「わっすいません」 
 振り向いた知佳を出迎えたのはいつきだった。優雅な微笑みが少し傾いて尋ねた。 
「何か探してる?」
「辞書を」
 辞書ね、と応じた彼は、おいでおいでと片手で招きながら歩き出した。大人しくついていくと、出し入れの少なさを物語る埃っぽい最奥の本棚にたどり着く。まっさらのまま歳を取った風情の辞書の群れが厳かに並んでいた。
「ありがとうございます」
 目的の国語辞書は最下段。しゃがみこんで物色している知佳の上から声が降って来た。
「長谷川さんは、本読まないの」
 なんで名前!
 不意打ちに一瞬頭が真っ白になる。
 が、次の瞬間、ネーム入りジャージを羽織っていたことに思い至り、知佳の肩から力が抜けた。声は尚も呼びかける。
「長谷川さん?」
「あ、はい、読書らしい読書はここ数年してませんっ」
 反動で、妙にはきはきと答えてしまった。胸を張る要素のない発言を。しかも本の虫を相手に。
 図書室を利用している者の風上にもおけん、と斬って捨てられるかな、とうっすら不安がよぎったが、彼は特に気にした風もなく「そうなんだ」と変わらず凪いだ声で応じただけだった。
 読書とは娯楽である一方、才や経験が必要な技術でもあると知佳は思っている。残念なことに知佳はその技術に乏しい。ゆえにこれまで遠ざかってきた。
「いっ……先輩は」
 いつき先輩、と言いかけたのを強引に喉の奥で修正した。
「いつも読んでますね、好きなんですね」
 声が下りてきたのは、少し間をおいてから。
「……そうだね。うん。そうだと思う」
 曖昧な語尾が少し意外だった。辞書の棚に手を預けたまま背後を見上げると、高い位置にある嫣然とした笑みと目が合った。
「家のすぐ裏で工事しててね、早く帰ると少しうるさいんだ」
 だからここで読む方が落ち着く、といつきは続けた。ああそれで、と腑に落ちた。彼は毎日図書室に現れるが、あまり貸し出しを利用している風ではなかった。
「長谷川さんは本、あんまり好きじゃない?」
 声と顔が急に近くなって知佳は少し慌てた。いつきが知佳に並ぶようにして、隣にしゃがみこんだからだ。
「ええと、好きになる機会がなかったというか、」
 もごもごと口を動かしながら、思い当たる理由を探し出す。過去挫折した読み物たちの残像が知佳の脳裏によぎって消えた。
「ページびっしりの字の量に腰が引けるというか……」
 手元の分厚い紙の束に目を落とした。必要な部分だけ拾い上げる辞書とは違って、連なる文字すべてが世界を作りあげる物語は荷が重い。
「読書感想文書くときに無理して読んだくらいです」
 選ぶのも面倒だったので毎年課題図書を読んでいたのだが、それがまた一ミリも面白くなかったのである。当然内容などひとつも覚えていないし、タイトルも思い出せない。中学に進級して、論文かどちらかの選択式になったのは知佳にとって幸いだった。
 それを告げるといつきは笑った。
「感想文の為の読書は作業になるよね」
「そうなんですよ」
 同意を込めて強く何度も知佳は頷いた。強いられる読書は時に苦痛で、自主的に本を手に取る気力を削ぐ。 
「感想文の本と、教科書に載ってたの以外でまともに読んだのって、数えるくらいしか」
「例えば?」
 興味深そうな視線を受けて、知佳は言葉につまった。すぐにぱっと思い浮かばない。
 過去に読んだ本過去に読んだ本過去に読んだ本。
 頭をひねりにひねり、やっとの思いで知佳が記憶の地層から掘り起こしたのは。
「……月のかんさつ」
 小学生向けの図鑑だった。
 
 
 

 適当に抜いた一冊を、本棚の前でぱらぱらとめくる。並んでいる本の中で一番薄く見えた一冊を選んだつもりだったが、三ページほど目で追いかけたのち、知佳は手の中で本を閉じた。
 だめだ。冒頭から話が長い。
 主人公自身の話ならまだしも、主人公の父の生い立ちまでは付き合えない。
 知佳はそっと棚に本を戻した。
 
 あの時いつきは馬鹿にしたりはしなかったし、それだって立派な読書だよとは言ってくれたが、唯一といえるのが図鑑というのは結構恥ずかしいような気がした。
 もしかして成長した分、物語を楽しめるようになっているかも知れない。そう思い立ち、図書室を拠点として早数ヶ月、知佳は初めて本を選ぶ目的で本棚に向き合っている。
 が、しばらく疎遠だった知佳と小説との溝はすぐには埋まらない。物語にのめり込む前に息切れする。それが小説というものだとわかっていても、要約すれば十行で終わることを十数ページに渡って事細かく描かれると、つい早送りボタンを押したくなる。
「あれ、こんなところにいたんだ」
 本を戻しに来たとおぼしきいつきが、棚と棚の間から顔を出した。
「今日は席にいなかったからどうしたのかと思った」
 言いながら、彼の手が棚へと返したのは、先ほど知佳が挫けた三倍の厚さをゆうに誇っていたので、知佳は心で白旗を上げた。
「実は、図鑑以外にチャレンジしようとして」
「うん」
「途中棄権したところです……」
「うん……」
 弱々しいため息が知佳の口からもれる。いつきはそんな知佳の様子をしばし見つめ、それからふと口にした。
「詩集、読んでみる?」
 知佳が返事の代わりに瞬きをすると、いつきは頷いた。
「詩は凝縮されてる分、ひとつひとつが短いし。だからこそ奥深いんだけど、言葉を眺めるつもりで気軽に読むのもいいんじゃないかな」
 知的な眼差しを優しげな笑みが彩る。それを間近で見せられて、首を横に振る動作なんてできるはずもなかった。知佳は我知らず、はい、と答えていた。
 ちょっと待っててと姿を消したいつきが再び戻って来た時、その手にあったのは一冊の文庫本。差し出されたそれを知佳はまじまじと眺めながら受け取る。彼の声が著者を語った。
「ランボーなんだけど」
 頼りない己の記憶が、知佳に囁いて教えた。ランボー。知ってる。これは知ってる知ってるぞ。
「聞いたこと、あります」
 やや胸を張って伝えれば、そう、よかったといつきはにこりと口角を持ち上げた。
「なんか、映画になったりしてましたよね」
「あ、そうなんだ」
「えっと、結構激しい感じの」
「ああ、ランボーは苛烈なところがあるね」
 知佳はかつて父が観ていた戦争映画を脳内に描いていた。戦場で暴れまわる若かりし頃のシルベスタスタローン。なるほど映画のみならず詩も出版されていたのかと、感心しながら本を裏返して、それから気が付いた。図書室の本には必ず貼られているバーコードがない。
 思わず見上げると、応えるようにいつきの口が弧を描いた。
「それは俺のだから、返却期間気にしなくていいよ」
「えっ」
 知佳は目を丸くして、本と持ち主を交互に見た。
「あの、いいんですか」
 かがんだ彼の顔が知佳に少し近づく。長い睫毛が羽ばたくのがよく見えた。 
「ゆっくり読んで」
 その声が何故か知佳の耳には格別に甘く響いて、罪なきランボーをぎゅっと握るしかなかった。
 
 
 
 結論から言うと、スタローン、関係なかった。
 全然関係なかった。
 フランスの詩人だった。
 知佳は彼の前であれ以上多くを語らなくて本当に良かったと安堵した。
 
 肝心の中身については、正直よくわからない。
 一欠片も理解できないものもあれば、時々はっとするような美しい言葉もあった。難しく読まなくていいからね、と帰り支度を整えてた知佳に彼は言った。押しつけがましさも棘もない言動は、知佳に巣食う文学への苦手意識をわずか和らげる。
 ベッドに転がりながら、まだ1/3も読み進んでいない詩集を開いた。
 古本屋の100円ワゴンセールで手に入れたというそれは、ところどころ色褪せてはいるものの、落書きも折り目もない。頁の間には厚紙が挟まっており、栞の役割を果たしていた。
 実のところ、最も知佳の気を引いたのはランボーが歌う人生の喜びでもやさぐれた夜の吐露でもなく、その厚紙だった。紛れ込んだかそれこそ栞にでも使っていたか、挟んだまま知佳に貸してしまったのだろう。
 古本屋らしき店のポイントカード。
 5つほど並んだ手押しのスタンプの下に、“伊月 博人”と綺麗な字で記入されていた。
 伊月。伊月博人。
 いつきひろと、もしくは、ひろひと。
 どちらだろう、と両方口に出して読み上げた後、【なかなか素敵な名前じゃないか!】という詩の一節が目に飛び込んだ。ランボーによる絶妙すぎるパスに、猛スピードで本を閉じた。
 
 あのポイントカードはやはり栞代わりに使われ、そのまま忘れられたものだった。
 翌日、知佳が差し出すと、彼は少し驚いた顔をしてから、探してたんだ、と安堵した風情で受け取った。隙がなさそうに見えて、案外抜けたところもあるらしい。
「長谷川さん」
 はい、と答える前に知佳の前に何かが突きつけられる。
 今さっき持ち主に戻された古本屋のカードだった。
「せっかくだから、覚えてもらえると嬉しいな」
 長い指が伸びて、知佳がゆうべ穴が開くほど見つめていた氏名欄を指し示す。やがて「いつき ひろと」とゆっくり唇が動いた。
 こくりこくりと何度も頷いて答えたが、知佳の眼前から“伊月博人”の文字はなくならなかった。四角い紙の表面が視界を妨げ、彼の表情は窺い知れない。もしかして、言え、と促されている、のだろうか、と心臓がおっかなびっくりに音を立てる。
「い、伊月先輩、ですね」
 緊張しながら知佳が口にすると、塞いでいた盾が遠ざかり視界に美貌が現れた。
「うん、よろしくね」
 再び激しくビートを刻み始めた鼓動と、なかなか素敵な名前じゃないか! と繰り返し囃し立てるランボーを鎮めるのに、知佳はとても苦労した。
 
 長く不確かな形でとどまっていた“いつき先輩”は“伊月先輩”に書き換えられた。
 
 
 
 ルーズリーフに問題集の答えをガリガリと強い筆圧で書きつけて書きつけて、それから息継ぎするように手を止める。時間にしてほんの数分だというのに、すでに知佳の集中力は底を尽きていた。どうにもやる気が起きない、身が入らない。意識を勉学に傾けようとしても、頭の中は知らず知らず別の方角へと向かっていく。上の空になる理由は、考えるまでもない。
 いつもほぼ空いている、伊月の隣が今日は空席ではなかった。
 席を埋めていたのは、長い髪を綺麗にまとめた、いかにも才媛といった風格の女生徒で、角で殴ったらそこそこ殺れるであろう恐るべき分厚い本を手にしていた。恐らく知佳が一生かかっても読み切れないような。
 クラスメイトかそれとももっと別の何かか、二人は時折小さな声でささやきあっている――ように知佳には見えた。
 実際は彼女が彼の方に顔を寄せるくらいで、さほど密な触れ合いではなかったろう。が、なるべく下を向いて机と見つめ合うよう努めていた知佳にはそれを察することは出来なかった。
 とはいえ視覚は防いでも聴覚まで欺くは難しい。斜め前から漏れ伝わる、ひそひそとした声まで知佳の耳は律儀に拾う。
 どうやら彼女も本が好きなようで、伊月からおすすめを聞き出しているらしいことを知った。聞き覚えのない名前やタイトルらしき文言が二人の間でいくつも飛び交っている。遠い国の言語のようだ。未だランボーとのお付き合いに四苦八苦している知佳には五千年くらい離れた会話である。
「今度貸してよ」
 女生徒の声がそう囁いた。色めいた内容ではないことに安堵する一方、隙間風が入り込むような感覚が知佳の胸を撫でる。伊月の声がやんわりと耳に届いた。
「それ、ここにもあるよ。せっかく図書室があるんだから利用したら」
 知佳の視線が問題集から思わず外れた。声がした方へと顔を上げてしまった。
 隣の彼女が「なによケチ」と悪態をつきながら立ち上がり、書棚の方に向かっていくのが目に入る。問いかけるつもりでも何か伝えたいわけでもなく、ただ意外な思いのまま、自然と知佳は伊月を見た。彼もまた知佳を見ていた。
 伊月は目が合ったのを確かめるように小さく微笑んでから、そっと唇に指をあてた。まるで内緒だよ、と囁かれた気がして耳が赤くなった。
 後からこっそりと確かめると、図書室の本棚には数冊のランボーが並んでいた。耳が赤くなった。
 
 
 
 借り受けた際の好意の言葉通り、知佳は詩集をゆっくりと読んだ。
 一通り全部流すように眺めて、頭からもう一度目を通した。彼のつづった詩は知佳には結局よくわからなかった。よくわからなかったが、途中で放棄せずに最後のページまで到達できたのは嬉しかった。半分も理解できなくとも、読了すら諦めていたこれまでを思えば達成感があった。
 けれど、そろそろ持ち主の元に返さねばならない。それを惜しく思うのは、おそらく本の中身の良し悪しとはあまり関係がない。これが例え詩集ではなく、ただの真っ新な手帳であっても、同じように長く手元に留めておきくなるのだろうから。
 申し訳ない。
 知佳は己の不純な読書について、夭折した詩人に心で詫びた。
 
 
 
 今週中に返そうと知佳は心に決めていたし、その旨をつい一昨日伊月本人に伝えたはずだった。
 しかし予定は思いがけない方向から狂うこともある。
「すいません、返すのは来週になってもいいですか?」
 ばつが悪そうに知佳が肩をすくめると、伊月は本から顔を剥がして目を瞬かせた。
「いつでも構わないけど、どうかしたの」
 知佳の通う高校には年に一度クラスごとに合唱コンクールというものがある。たいていはHRの時間や昼休みなど合間に練習する程度なのだが、知佳の担任は音楽教師であったために、力に入れようが他のクラスとは大きな開きがあった。来月の本番に向けて、週末まで放課後三日間、みっちり強化特訓を行う、と今朝のHRでいきなりお触れがあったのである。強引ではないかと思うものの、担任は傭兵のごとき迫力があるので誰も逆らえない。
 放課後のんきに図書室に寄っている場合ではなくなった。
「熊殺しのクラスか。それはご愁傷様と言うほかないね」
 伊月は憐憫の眼差しを寄越した。言わずもがな熊殺しとは知佳の担任をさしている。
「急いで返さなくてもいいよ」
 これまで彼がどういう態度で接してくれているか、知佳はよく知っているつもりだったから、その寛大さは予想から外れていなかった。けれどそこに甘えすぎてはいけない。知佳は首を振った。
「来週ちゃんと持ってきます」
 伊月は苦笑いを見せてから、じゃあ待ってるね、と頷いた。
 
 
 
 それから三日間、知佳は級友らとともにたっぷりと鍛えられた。熊殺しを前に手を抜くことは一切許されない。ただひたすらに美しいハーモニーを奏でるだけに心を傾け、帰る頃には皆しごき抜かれた新兵のようにげっそりとした顔色を浮かべていた。
 その甲斐あってか、担任は仕上がりに満足し、最終日の金曜日は思ったよりも早く解放された。

 帰りのバスはまだ来ない。
 ぽかりと空いた時間を前にして、知佳の頭に真っ先に浮かんだのは図書室だった。時計を見ればまだ開放時間に間に合う。
 念のため鞄に押し込んできた詩集を抱えて、知佳は図書室の扉を開いた。
 閉館が迫っているせいか、いつにも増して閑散としている。ひと気がない。静まり返った空気によそよそしさを覚えつつ、知佳はいつもの場所を見渡した。
 が、あの席に彼の姿を見つけることはできなかった。時間も時間だ、もう今日は帰ってしまったのかも知れない。
 落胆の息を吐いて戻ると、司書がカウンターで帰り支度を始めたところだった。いくら生徒が多いとはいえ、毎日欠かさず通えば顔なじみにもなる。知佳の母親ほどと見受けられるその司書は、知佳の顔を見て「あら」と相好を崩した。
「姿が見えないからどうしたのかと思った」
「ちょっと行事ごとで」
 えへへ、と知佳は誤魔化したあと、閲覧席を振り返りながら尋ねた。
「伊月先輩、もう帰りました?」
「いつき?」
 ぴんと来ないのか、彼女は名を聞き返した。
「あの、あそこの席にいつも座ってる、」
 知佳が指をさしながら説明すると、ようやく合点がいったように大きな頷きが返る。
「ああ、あの綺麗な子。今日はいなかったね」
 えっ、と知佳が口をはさむ前に司書は続けた。
「そういえば、ここ二日ばかり来てないわ」

 あの子も毎日来てたのに、どうしたんだろうねえ。

 司書は不思議そうに首を傾げた。


 
 カーテンの隙間から陽が射している。分け入った光は細長く切り取られ、窓際の一端を強く照らしていた。端正な白い横顔がくっきりと描き出される。
 その風景はいつかの記憶とよく似ていて、知佳は初めて図書室に足を踏み入れた時のことを思い出した。綺麗だな、とあの時と同じように思う。けれど今の言葉の向かう先は、美術品への賞賛ではないと知佳はよくわかっていた。
 週が明けた月曜の放課後。
 図書室は何一つ変わらぬ様子で知佳を迎えた。いつもの席にいつものように、腰かけて本を読む伊月の姿があった。
「ありがとうございました」
 知佳は両手を添えて本を返した。ちゃんと全部読みました、と伝えると受け取った伊月は目を細めた。
「どうだった?」
「好きだなと思うものはいくつかありました。でもごめんなさい、ほとんどよくわかりませんでした」
 嘘はつきたくなかったので、知佳はできる限り正直に答えた。
「うん、そっか」
 貸し出した甲斐のない返事だったろうに、詰る様子はなく笑みはとても柔らかい。
「俺も同じだよ。好きな詩もあれば、全然響かないものもあるし」
 読書なんてそれくらいでいいんだよ。そう言葉をかけられて、知佳はどこかほっとした。ほっとして、気持ちの錠前が、外れてしまった。
「あの、工事終わったんですか」
 知らず、終わっちゃったんですか、と聞こえるような未練がましい物言いになった。
 伊月の目がわずか見開かれる。
 彼は騒音から逃れるために図書室に来ていた。それがなくなればわざわざ残る理由はない。斜め前の席から彼の姿は消えてしまうのかと、あの時間は幕が下りるのかと、その思いから言葉が滑り出た。 
「だから図書室には寄らずに、」 
「――もしかして、先週ここに来たの?」
 伊月に遮られて、知佳ははっと我に返った。まるで詮索するような口調だったと気づいて、口を噤む。その様子を肯定ととらえた伊月は、彼にしては珍しく頭をかく仕草を見せた。知佳から背けるような形で顔を隠す。
「うーん、そっか」
 あまり聞いたことのない種類の、困惑が入り混じった声だった。困らせている、という事実に知佳はますます身を固くして唇を噛んだ。
 伊月の背中が見えたのはほんの一瞬。すぐに知佳の目の前で翻り、正面になった。伸びゆく陽光が彼の頭上に降りそそぐ。
「うん。工事ね、終わったんだ」
 振り返った両目は知佳を見上げていた。吸い付けた視線そのまま、伊月の口がなめらかに動く。
 
「ずいぶん前に終わってたんだ」

 微笑みは優しかった。けれどいつも目にするものとは違っていた。常にはない、照れくさそうな色が一匙ほど混ざり合って、知佳に何かを訴えていた。
 唇に笑みをのせたまま、伊月はかすかに俯く。広げられた本の表面をその視線が撫でた。
「最初の一ヶ月は本当に工事がうるさくて。本を読む場所が欲しかったんだ」
 図書室で過ごした時間を数えようとすると、とてもひと月では済まない。幾度も月をまたぎ、季節も通り過ぎた。
 一ヶ月は、と伊月は言った。
 ではその後は? 
「何のために残ってたか、聞きたい?」
 心を読んだような台詞を吐いて、伊月は自分の隣の椅子を引いた。
 知佳は咄嗟に何を言えばいいのかわからなくなって、わからなくなって、ランボーの詩よりもわからなくなった。瞬きをいくつも重ね、意味深な笑顔と引かれた椅子に何度も何度も目を走らせ、息を大きく吸い上げた知佳に出来る返事は少ない。
 やっとの思いで一言返した。

「うむ」



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