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しみが住む部屋


 

「あんまり飲むなよ、四本しか買ってねえんだよ」
「いいじゃないですか引っ越し祝いってことで。しっかしいいとこ見つけましたよねェ」
「まあな、日ごろの行いがいいから」
「日頃の行いがいいねェ、そんな人が女に叩きだされますかねェ」
「てめ、」
「わっウソウソすいません感謝してますって」
 でもほんとラッキーっすよねェ、と堺はへらへらと笑った。
 
 駅から歩いて三分弱。キッチンは手狭だが風呂とトイレは別。築年数は15年と聞いている。
 同棲していた女に追い出され、入居したのはつい先日。
 条件を考えれば不自然なほど格安な家賃に惹かれ、一も二もなく不動産屋でハンコを押した。俺もそれほどめでたくはないから、たまたま巡り合えた掘り出し物、ではないことくらい承知している。過去、何らかの不幸な事件が起きた訳あり物件なのだと、不釣り合いな金額を見た時から気が付いていた。
 けれど、実害があるかないか知れないあやふやなリスクより、住む家も金もないという逼迫した状況のほうがその時の俺にとってはよほど脅威だった。
 むろん、気味が悪くないと言えば嘘になるが、幸い一人で怯えて暮らすわけではない。
「先輩、それもらってもいいです?」
「いいわけねーだろ。水でも飲んどけ」
 目の前でくだをまいてる男――堺はサークルの後輩だ。情けないことに俺と似たような事情で路頭に迷っていたので、家賃もろもろを折半して共有することになった。男と同居なんてむさくるしくてかなわないが、背に腹は変えられない。
 どちらか目途がついたら、出ていけばいいだろう。
 後輩から取り上げた発泡酒のプルタブを開けながら、部屋をぐるりと見渡す。
見るからに真新しいエアコン、充分な広さのリビング、清潔感に溢れたベージュの壁紙。どれもこれも貧乏学生には分不相応で、相場の半額とはにわかに信じがたい。ただ一点、リビングの壁紙に、ぽつんと浮いている黒いしみだけが気になった。煙草でも焦がしたのかな、そう思いながら缶に口をつけた。
 
 何か出るのでは、とおっかなびっくり暮らしたのはほんの数日だった。
 それこそ最初はおぞましい想像を膨らませて身をすくませていたのだが、何事もない日々に緊張感は続かない。
 堺と下らない話をしながら毎夜安酒をかっくらっている内に俺に巣食っていた警戒は薄れ、いわくつき物件に住んでいることさえ忘れかけていた。
 何も起きなかった。
 本当に何も起きなかったんだ。
 

 ――俺には

 
 
 堺の様子がおかしいことに気が付いたのはいつだろう。
 もともと線の細い、ひょろりとした体格をしている。顔の肉付きも薄い。しかしその頬は更に落ちて削げていた。顔色もどこか優れないように思えた。
 食欲が出ないんですよ、と不健康な姿にいつもの軽薄な表情をはりつけて、堺はへらへらと答えた。
 確かに今年は暑い。最新式のエアコンに頼ればたちどころに涼しくはなるが、電気代が気がかりで存分には使うことは許されない。部屋にはむわっと蒸しあげられた空気が充満している。窓をあけても風はない。
 こう猛暑が続いちゃバテるよな。
 心なしか前よりゆるくなったボトムを引っ張ってどこか安堵する。
 少しくらい痩せたっておかしいことじゃない。
 自分に言い聞かせるように、ぬるい空気をせわしなく団扇でかきまぜる。
 壁の黒いしみは、白い肌に浮かぶほくろのように見えた。
 
 夏の季節が濃くなっていくごとに、堺の体は薄くなっていった。そして、あまり外に出なくなった。バイトも大学も休みがちになってしまったが、調子が悪いなら無理はさせられない。病院に行けと何度も言ったが、へらへら笑うばかりで堺は応じなかった。
 日を浴びず家にこもりがちなせいで、夏だというのに肌は青白い。頬はますますこけて、頬骨が浮き出ている。健康的とはほど遠い様相なのに、どす黒いくまに縁どられた両目だけは光を失っておらず、その差異がまた言いようのない不安をかきたてた。
 本当に、夏バテなのか?
 一度は片隅に追いやった、破格の家賃が脳裏をよぎる。
 粘りつくような思考を振り払って、サンダルに足を突っ込んだ。
「バイト行ってくるわ。お前ちゃんと寝てろよ」
「大丈夫っすよォ」
 堺は掠れた声で笑って見送る。何が大丈夫なのか、言ってる堺も言われた俺も、わからなくなってるに違いなかった。
 振り返った時に、例の黒いしみと目が合う。
 気のせいだろうか、少し――
 

「堺、お前やっぱりどっかおかしいよ。医者に見てもらえ」
「まぁだそんなこと言ってんすか、先輩。ちょっと暑さに参ってるだけですよォ」
 堺は口元をだらしなくゆるめて、ひらひらと手を振る。
「ちょっとっていうけどお前」
「ほら飲んで飲んで」
 すすめられるまま缶ビールに手を付ける。食欲は落ちて弱っても、堺は変わらず酒には付き合った。前ほどのスピードで流しこむことはないが、ちびちびと一口一口啜りあげるようにして味わって飲んでいる。
「最近ろくに飯食ってねえだろ」
「でも元気なんすよ俺。そんなに心配しなくても平気ですって」
 薄く血管が見えそうな皮膚は、まるで病人のそれだ。
 飲んでばかりいた堺が、珍しくツマミに手を伸ばした。骨ばった手につかまったサキイカが二つに引きちぎられる。口に入れることなく、堺は尚も両手で裂いた。ぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶち。死にぞこないのような色の中で、目だけが爛々と輝いている。
 思わず目をそらした先で、飛び込んできたのは黒い点。
 肌が粟立った。
 最初はささやかな存在感だった。ぽつんと、小指の爪くらいの。
 今は、ピンポン玉ほどに膨らんでいる。 

 ――いやまあ、平たく言うと人が死んでるんですよ

 契約の際、口ごもりながら不動産屋は語った。どうせそんなことだろうとわかっていたから、余計な想像をしないようにそれ以上詳しくは聞こうとしなかった。
 黒いしみに見下ろされるようにして、まだ堺はさきいかを粉々に千切っている。
 
  
「彼女とやり直したいんすよ」
 痩せこけた堺がぽつりと言った。
 激しい雨が屋根を打ち鳴らして、堺の細い声がいよいよ頼りなく聞こえる。開けっ放しだった窓をしめ、土砂降りの騒音を追い出した。
 堺の言う彼女とは、俺と同居するまで一緒に暮らしていた女のことだろう。俺と同じく、つまらないことで揉めて家を追い出されたと聞いていた。
「俺も甘えて、言い過ぎたっていうか」
 堺はただ独り言のように、ぶつぶつと言葉を連ねていた。遠く隔てられた雨音と大差ないささやかな音が、青く乾いた唇から淡々と吐き出されていく。
「彼女も私が悪かったって言ってるし」
 身じろぎもせずに、堺はじっと一点をみつめている。
 壁紙の、ベージュではない部分。そこに話しかけるように堺は口を動かし続けた。
 黒々としたしみは、こぶし大ほどになっていた。 
 

 夏の気温はどんどん高くなる。 

 堺はどんどん痩せていく。 

 しみはどんどん大きくなる。

 
 
 彼女とね、また二人で暮らそうって話してたんですよォ。
 やっぱり一緒ニいて欲しイって、言われちャって。
 一人ハ寂しイんですッて、俺がいてヤならキゃ。
 

 目を輝かせて堺は笑う。
 ニっと歯を見せて、落ちくぼんだ眼に暗い光をたぎらせて。




 しみはいつしか、ただの円ではなく、人らしい形を描き始めていた。




 堺が喋るのはもはや「彼女」のことばかりだ。へらへらと笑い、話かければ返事はするものの、時折意味がわからないこと口走って喜んでいる。常にべたりと寄り添って、壁から決して離れない。
 堺が言う「彼女」が果たして何を指しているのか、想像するのはすでにたやすかった。
 

 人が死んでるんですよ。

 もう認めるしかない。
 この部屋は、安くなるべくして安くなった物件だ。
 鶏ガラみたいな体を揺らしてへらへら笑う堺に、今更になって冷たいものを覚える。それと同時に、目を背け続けてきた罪悪感が雪崩のように俺を襲った。
 契約も手続きも、全部俺が一人で済ませた。堺には、ここがどういう事情で安いのかを何一つ告げていない。万が一怯えて、共同で借りる約束を反故にされるかも知れないと、たったそれだけの理由で伏せておいたのだ。堺は何も知らない。何も知らずに、ただ安さに喜んで。
 そのせいでこんな目に、
 俺のせいで、
 

 きっと医者は役に立つまい。
 寺か神社に連れていこうと堺の腕を引いたが、根が張ったように動かない。屍を思わせる貧しい体だというのに恐ろしく重く、腕が抜けそうになる。部屋に縫いとめられているように座り込んでいる堺は、不思議そうに俺を見上げてから、ニタァと口の端を上げた。
 ぞっとした。
 こいつを動かせないなら、俺が近くの寺社に出向いてお札か数珠を買ってくるべきか。
 いやだめだ。ひとの形を成したしみを見て、首を振る。
 いま目を離して、取り返しのつかないことになったらどうする。
 俺は携帯をたぐりよせて、同じサークルの友人の番号を開いた。
 数コールののち、繋がった。こちらが喋る前に、電話の向こうがわんわんと鳴り響く。
「てっめえ今まで何してたんだよ! 散々連絡しても出やしねえし、メールは無視するし、聞いてんのか!?」
 受話器が震えるほどの怒気だった。しばらく顔を出していない不義理を責めているようだが、今は聞いてやる暇はない。
「悪い、その話はあと! どこでもいいからお札買ってきてくれ! 今すぐ!」
 何事か騒いでる相手の声を遮って俺は叫んだ。
「堺がヤバいんだよ、このままじゃとり殺される!」
 切羽詰まった空気が伝わったのか、電話の向こうが一瞬黙った。
 息継ぎひとつぶんの間をあけて鼓膜が揺れる。
 
 


 



「堺って誰だよ」





 え、
 



 
 
 
 心臓が耳に張り付いたように大きく響いた。
 受話器からの声が厚い壁に弾かれて遠くなる。
 馬鹿いうなよ、堺だよ。
 頭ではそう思うのに、俺は口に出して続けることができなかった。温度が下がる。背中から体温が落ちてゆく。
 さっきまで向かい合う距離にいた堺の顔が思い出せない。
 堺は、サークルの、そうだサークルの。
 思い出そうして、愕然とする。今年は新入生が誰も入らず、俺たちより下の代はいない。俺もやっと先輩になれると思ったのになあ、と打ち上げの席で散々嘆いた記憶が、黒い幕の奥からばらばらと落ちてくる。
 どの過去にも、堺なんて男の姿は見当たらなかった。気配も残像もなにもない。ここから見える玄関には汚いサンダルが、たった一足。
 


 
 俺が一緒に暮らしていた男は誰だ。


 
 俺が一緒に暮らしていたものは何だ。


 
 
 通話相手が黙りこくった俺に構わず怒鳴り散らしている。


 
「引っ越してから一切連絡断ちやがって、みんな心配してんだぞ! 一体今お前どこに居るんだよ!」



 電話を耳にあてたまま、ゆっくりと振り返る。
 そこには、もうしみはなかった。


 


 代わりに、一面真っ黒に染め上げた壁が俺を取り囲んでいた。





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