2話目 / 回覧板の巻



 田舎の店じまいは早い。
 年寄りの朝は早い。
 そして町内会の仕事も早い。
 
 次に回覧板が回ってきた時には、当たり前のように名簿には、かの名が連ねられていた。やはり、隣人はご丁寧に会費を納め、町内会に加わったらしい。昨今町内会や互助会などの面倒事を厭う若者が多いなか律儀なことである。年齢はおろか出身や戸籍もろもろ不詳であるため、おいそれと若者に分類して良いものかどうかは判断に困るところだが。
 回覧板の回覧順は、基本的に住居の並びや距離に準ずる。そのルートに追加された新入りさんに、隣接した我が家が回覧板を回すのは順序としてごく自然なことではあった。ただ「三枝」や「鈴木」や「瀬野」の苗字に混じって「魔王」が肩を並べている回覧表については、自然と言い切って良いものかどうか。ちなみに「瀬野」が私の苗字だ。「魔王」はそのすぐ下で、同じゴシック体と思えぬ重厚な存在感を放っている。
 
 昨日鈴木さんが運んできたおすそわけのりんごと回覧板を目にして、私は身構えた。先日、不意打ちで人の度肝を二つ三つ抜いていったあの魔王の巣に、ついに自らのこのこ出向く任務が発生してしまったせいである。母と祖母はあの通りなんの警戒心も抱いていない様子なので、こわいっす、気が進まないっす、と弱音をこぼしてもまともに取り合ってもらえないだろう。
 他のご近所にしてもそれは同じで、町内会にスムースインしてしまったことからも伺えるように、のどかで刺激のない田舎町は騒然とするでも猟友会が動くでもなく、あら、空家じゃなくなったのね、めでたしめでたし程度の反応に終始し、狼狽の欠片も見当たらない。24時間営業のコンビニが建った時の方がまだ湧いたものである。どういうことなんだ。おかげで、私ひとりが及び腰という実に理不尽な状況に置かれている。
 昨日の夕方回ってきた回覧板を、今日のこの時間まで放置してしまったのもそういう事情からだ。誰とも分かち合えないまま孤独にビビっていた。しかしいつまでも回覧をせき止めているわけにはいかない。三枝さんを初め魔王以降のお宅にご迷惑をおかけしてしまうし、ここで握りつぶしたところで回覧板は滅びぬ。何度でも蘇ってくるのだ。いきいき健康・太極拳講座のお知らせとか。
 すでに日曜は後半にさしかかっている。行くなら今しかない。魔王と名乗る相手の本拠地に、日が暮れてから伺うなんて、そんな蛮行まさか。失礼以前に、闇に乗じて魔界と繋がったり禍々しい儀式に行っていたりなどの恐ろしい魔属系イベントに巻き込まれそうでいやだ。
 よし。行くぞ。行くったら行くぞ。行きたくないけど行くぞ。ようやく腹を決めた私は、夕方特有の気だるさを引き連れて家を出た。



 魔王邸宅は一見するところ、至って普通の佇まいである。それもそのはず、ほんの一年前まで人の良い老婦人が手入れしのんびりと暮らしていた、まごうことなき一般住居。さすがに魔王の住処になったからといって、天をつく塔になったり、不気味な蔦に覆われたりという変貌は今のところ遂げていない。ただカラスが多いのが気になる。
 不穏な鳴き声を耳にしながら、私はインターホン相手に一人相撲をしていた。指を伸ばすものの、触れる直前で引き返してくる。数えて六回、さっきからこれを繰り返している。心の準備が我ながら長い。
 正直ドアノブにでもかけて帰りたいところだが、そっと置き去り戦法が許されるのは留守の場合のみである。原則的に、一度は在宅を確かめるのがこの町内での暗黙の回覧板ルール。
 結局、私の迷いに迷った指が、えいやとベルを鳴らしたのは、人様のお宅の前で繰り広げるにはそこそこ長い五分三十秒後のことだった。呼び鈴が響いてから数秒、どうか留守であれ〜〜不在であれ〜〜と心から祈りを捧げる。が、しかし、間を置かずして聞こえてきた扉越しの声によって、虚しく打ち砕かれた。
「誰ぞ」
 鼓膜に直接囁くような低音は、一度聞いたら忘れられない。
 居たのか……
 落胆しつつも、私は軍の新入りのように背筋を伸ばした。
「あ、え、となり、隣の瀬野であります。隣の」
 曲者ではないと伝えんとするあまり、執拗に「隣」をアピールしてしまった。蕎麦を手に挨拶に来たくらいだから、隣人の存在くらい覚えているはず、という希望にすがった。
 ドアノブが回る。
 ゴゴゴと、ドアはあの日のように穏やかでない物音を立てて動いた。魔王の手にかかれば、どの扉も分け隔てなく物々しさを帯びるのだろうか。しかしその重厚な演出とは裏腹に、ドアは15センチほどしか開かなかった。

 魔王、ドアチェーンかけてる。

 田舎には稀な徹底した防犯意識。さすが初対面の人間に上から目線で用心を説くだけはある。警戒心の強い一人暮らしのOLか。
「何用か」
 15センチの闇から冷え冷えとした瞳が光った。ドアチェーンの関係上、片目だけしか見えないが、やはり異様な凄みがある。
「回覧板です」
「ほう……」
 一体何が、ほう……なのかはわからないが、とにかく渡してしまえば解決だ。
 回覧板というより機動隊の盾に近い格好で抱えていたそれを私が隙間に送り込もうとした時、前置きなく扉が閉じた。え、と思うが早いか、一気に大きく開かれた。
「ごくろう」
 急に暗くなった視界に思わずのけぞった。さきほどまで1/3ほどしか見えなかった魔王が、今や3/3の状態でそこに立っている。夜の色をしたベールが波を打ち、吸い込まれるように見上げた。
 魔力を帯びていそうな長い髪、目から頬にかけて真っ直ぐに走る傷、心持ち尖った耳は不吉そうな装飾品で飾られている。唯一肌だけは抜けるように白いが、身にまとう闇の装束がそれを極端に際立たせ、人ならぬ迫力を生んでいた。改めて見るとつくづく「魔王」たる風格である。平和な庭付き一戸建てではなく、地獄の玉座あたりを背景に据えなければとても釣り合いが取れない。そういえば今日は肩にカラスをのせていなかった。外で鳴きわめいている群れにでも混じっているのだろうか。
 こちらの不躾な視線など意に介した様子もなく、魔王は渡された回覧板をじろじろと眺め、長い爪でバインダーにはさまれたお知らせの類をめくっていた。
 似合わねえーと心中で感想をもらしていると、それを見透かすように鋭い目が私を刺した。
「この回覧板とやらは」
「えっ、はい」
「いかに始末するが望ましいか」
「始末!」
 目を白黒させた私を見て、遥か高い位置にある魔王の目が胡乱げに動いた。
「余の手に落ちれば、その務めを終えるわけではあるまい」
「……え、ああ」
 直後、この黒いのは何を言っているのかと瞬きを繰り返すしか出来なかったが、黙って私の言葉を待っている鋭利な美貌を見上げている内に、なんとなく理解した。このあとどうすればいいかと、恐らく尋ねているのだ。
「えっと、中身確認したら回覧した日付を記入して、次の人に回してください。魔王さんの場合、次の人は三枝さんになります」
 回覧表を指差しながらそう伝えると、魔王は自身の顎に爪を這わせながら重々しく頷いた。
「成る程、よかろう」
 さすが無駄に偉そうというか堂々とした受け答えではあるが、逆にどっしり構えすぎていて不安だ。念のため、三枝さん宅を把握しているか聞いたところ、やはりというかなんというかわかっていなかった。全然よかろうじゃない。
「あの川の向こうの、青い屋根が三枝さんです。犬が6匹いるんで気をつけて。噛んだりしないけどたまに群がってきます」
 途中まで大人しく聞いていたのに、犬について触れた途端、魔王の耳はぴくりと大きく震えた。
「く、番犬とは片腹痛い。余の敵に非ず」
「はあ、いやまあ、事実敵じゃないんで……」
 チワワだし……
 三枝家の方角を向いたまま魔王は不敵な笑みを浮かべている。何が魔族の長に火をつけてしまったのか、人間の小娘風情には知る由もない。揉め事が起きなきゃいいなとこっそり案じた。それはともかく、使命は果たしたことだし、もう帰ってもいいだろうか。
 そろりそろりと後ろ足で後退を始めた私は、魔王の背中に一言「それでは私はこのへんで」とおいとまの台詞を吐き、踵を返そうとした。
「待て娘」
 だめでした。
「へ、へい」 
 その場で足を止めて様子を伺うと、顔だけ振り向いた魔王が近う寄れとばかりに手招きするではないか。仕方なく私は渋々と巻き戻しの要領で下がった分だけ歩みを戻した。頭上に冷然とした声が降ってくる。
「芥のはからいについて造詣は深いか」
「は?」 
 盛大に首をかしげてしまった。意味を求めて見上げるも魔王の顔色は変わらない。
「あの、もうちょっとわかりやすく」
「察しの悪い娘だ」
「いや普通わかんないです」
「屑物の扱いを熟知しているかと質している」
 回覧板の時といい、どうも言い方がまわりくどい。腕を組み、真剣に思案することおよそ10秒。
「……ごみの捨て方知ってるかって話……?」
「そう述べている」
 それならそうとストレートに言って欲しい。なんだよ芥のはからいって。
「ごみは半透明の袋にいれて収集所に捨ててください。必ず分別して」
「分別」
「燃えるゴミとか燃えないゴミとか」
「火炎魔法にかかれば大方のものは跡形も残らぬぞ」
「分別の基準は、燃やそうと思えば燃えるみたいな力技じゃないんで……あとそれ消防が飛んできます」
 隣でボヤ騒ぎは困る。魔王はわかったようなわからないような曖昧な表情をしていた。 
「しばし待て」 
 玄関の奥に引っ込んだかと思えば、すぐに何かを抱えて戻ってきた。
「余の屋敷にはびこるこれらを見るがいい」
 手にしていたのは潰した段ボール。
 魔王、荷造りに段ボール使うのか。割と普通の引越しだな。
 垣間見える生活感にもう少し注目をしたいところだが、魔王が確信に満ちた顔で「これは燃えるゴミに属すると結論づけて良いな」と語り出したので、私は首を振り「段ボールは段ボールゴミという分別です」と断じねばならなかった。魔王は敵に背後でも取られたように「なに……」などと呻き、たじろいでいた。確かに、よく燃えそうなこの厚紙が燃えるゴミとして括られないのは意外に思えることだろう。しかし家庭ごみの分別はそう単純にできてはいない。
「他にプラスチックとかペットボトルとか空き瓶空き缶とか、だいたい8品目くらいに分けられますね」
 魔王の顔が途端に険しくなった。呼応してか、カラスの群れがいっせいに甲高く鳴きわめく。
 彼の気持ちはわからんでもない。高齢者などはこの複雑な分別システムに未だ翻弄され、ゴミ箱の前で右往左往しているという。燃えるゴミ燃えないゴミの段階でつまづいている魔王なら尚の事、混乱しないわけはない。
「町内会入る時に冊子はもらいました?」
「打ち捨てられた残骸の末路を記した書か」
「壮大だなー!」
 ゴミ収集の手引きをそう表現された日には、思わずタメ口にもなる。魔王はそれに気を悪くするでもなく、騒ぐカラスを一瞥し黙らせていた。
「ごみの分別方法とか収集時間とか、あの冊子読めば大体のことは書いてありますから」
「ほう」
「曜日によって捨てるゴミが違うので、収集カレンダー確認してください」
「覚えておく」
「ビンとか捨てる時はラベルは取って、開け口がプラスチックだったらそれも外して、それぞれ該当の処理を」
「なに」
「あ、粗大ゴミはまた別の手続きが必要です」
「……!」
 またしても魔王の顔が邪悪にひきつる。怒りではなく失望に近い。これがいわゆる、魔王のライフはもうゼロよ、という状態に違いない。段ボールはもとより、ビニールの類やクッション材に新聞紙など、引越しはとかく不用品が大量に出るものだ。しばらくは慣れないごみの始末に忙しく追われることだろう。髪の分かれ目から覗く白い額に指をあて、魔王は気だるげに息を吐いた。
「障りの多いことだ。ままならぬものよ」
「まあ一応ルールなんで。破るといろいろと面倒なことになりますし」
 軽い調子でそう言うと、魔王はわざわざ私に向き直り、ゆっくりと大仰に頷いてみせた。
「案ずるな。余は盟約を違えぬ」
 いちいち重い。
 たかだか分別するとかしないの話も、その顔と声で物々しく語られると血の掟のごとく響く。さっきまでリビングでところてんをすすっていたというのに……と日常と非日常の温度差を肌で感じながら、私は意味のない笑みを浮かべた。ははは。多くの場合、困惑のシーンは苦笑いがクッションの役割を果たしてくれるはずだ。下手な笑顔を貼り付けたまま、今度こそその場から離れようと背を向けた。
「娘、名はなんという」
 振り返れば、いつ飛んできたものか、黒いベールの肩に止まったカラスが羽を畳むところだった。やはり覚えていないのかと脱力し、訪ねた時と同じように「瀬野です」と名乗ると、魔王は「そうではない」と言ってわずか目を眇めた。
「瀬野とは代々受け継ぐ一族の名であろう。そなた自身の名を申せ」
「あ、夏織です。瀬野夏織」
「カオリか。心得た」
 地響きにも似た声が私の名の音を奏でる。果たして魔の者に名前をやすやすと告げて良かったのか。薄い唇からちろりと覗いた牙に漠然とした不安がよぎったが、もう遅い。自ら教えてしまったそれは魔王の舌先で転がされた。今になって相手が人ではないことを思い出した私は、慌てて身を翻す。

「カオリ」

 逃げ足の一歩目を魔性の声が制した。
 首筋にひやりと汗が。


「ごみ収集所とは何処ぞ」


 再びUターンを強いられた私は、結局収集所まで案内し、カラスよけのネットを被せる講義までワンセットで行った。余の使い魔は残飯など漁らぬと不満げな魔王を説くのに思いがけず時間を要し、私の日曜は日暮れとともに消えたのだった。




    
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