3話目 / スーパーマーケットの巻



「卵あったっけ」
「昨日使い切ったよ」
「コーンフレークはあったよね?」
「ない。今朝全部自分で食べてたじゃん」
「あ、ツナ缶安いわこれ」
「はい待ったーうちに3連パックが5個ありますー戸棚に入りきらないですー」
 特売のツナ缶に伸ばしかけた母の手は素直に引っ込んだ。が、すぐにその手は真横に並べられていた同じく特売のトマト缶を三つほどつかみ、ガコンガコンと荒っぽい音ともに買い物かごに放り込む。ツナ缶を阻止したところで戸棚の扉は閉まらないと悟り、私は大人しく買い物カートを押すことに専念した。
 母の買い物はいつも大雑把だ。あまり吟味してカゴに入れるということがない。基本的に「大は小を兼ねる」という思想の持ち主なので、必要量を上回る買い物が常である。
「夏織、あれなんだっけ。何とかっていう番組でやってた何とかっていうやつ」
「わからん。手がかり少なすぎて全くわからん」
「ほら、あれ、ホットケーキにみりん入れるとお店の味になるって」
 言うが早いか、すでに窮屈そうにひしめいている買い物かごに、新たにホットケーキミックスが三箱投げ入れられた。お店の味はいいが何枚焼く気なんだ。

 ここ、町で唯一のスーパーマーケット・サンダースは車で十分ほどの距離にある。
 家電や衣類などサンダースでは事足りない場合、更に30分ほど走らせて隣町の大型ショッピングモールに出向くが、食品や日用品をはじめとした日々の買い物はほとんどの町民がここで間に合わせている。ここらあたりの家庭の食卓はこのサンダースが支えていると言っても過言ではなく、行けば必ず誰か彼か顔見知りが買い物客として訪れていたり、同級生の親が店員として働いていたりと、知り合い遭遇率は極めて高い。ちなみにオーナーが三田さんなのでサンダースらしい。
「瀬野じゃん」
 言ってるそばから早速知り合いとエンカウントだ。カゴから落ちそうなホットケーキミックスの箱を支えていた私にそう声をかけてきたのは、同じクラスの宮間くんだった。同じクラスとは言っても、田舎の高校なので二クラスしかないのだが。
「あら司くん、いい色に焼けたわねー甘栗みたい」 
「おばさんこの前もおんなじこと言ってたし」
「あれそうだったっけ」
 小学校の頃からの縁ともなると家族ぐるみでのお付き合いに慣れきっている為、双方あまり遠慮がない。
 母と特に実のないやり取りを交わした宮間くんは片手にマヨネーズの入った買い物袋をぶら下げて、ちょいちょいと手招きをした。カートを母に預けて近づいていくと、宮間くんのつり気味の目があたりを伺うように注意深く動く。それから小声でこっそりと。
「なあ、お前見た?」
「なにを?」
 宮間くんは更に声を落とした。
「ダースベーダーみたいな奴が店内ウロついてんだよ」
「ダッ?」
 一瞬声が裏返った。このろくすっぽ娯楽のない町にダースベーダーが降臨とはにわかに信じがたい。
「ちょっとこっち来てみ」
 宮間くんは有無を言わさず私の腕を取り、生鮮食品のフロアまで引っ張っていったかと思えば、陳列棚の影に身を隠した。「ほら、あれあれ」と示される人差し指と目配せに急かされて視線を向けると、なるほど、彼の証言通りの光景が確かにあった。 

 ダースベイダー的な奴、精肉コーナーに現る。

 買い物かごを手に、特売の鶏肉68円の前で仁王立ちである。
 私達に背を向ける格好で立っているため後ろ姿しか確認できないものの、5がつく日はゴーゴーデー! とかなんとか陽気な曲が流れているような店内では、ちょっと目を引くどころでは済まない風体だ。主婦を中心とした周りの買い物客と比べ、そこだけ格段に合成画像のごとく浮いている。
 フードを頭からすっぽりと被り、黒魔術のようなマントを引きずっているその姿。確かに彼が言うようにダースベーダーに見えなくもない。しかし私には黒い壁と化した不吉な背中に心当たりがあった。
「あれ、ダースベーダーじゃないと思うんだよね」
「じゃあなんだよ」
 当然の質問ではある。私は何故か、身内の奇行を目撃されてしまったような決まりの悪さを覚えつつ、ぼそぼそと口を開いた。
「……うちの、隣に来た、魔王」
「あ、あー魔王な。なんだ」
 宮間くんは「はあ?」と問い返すでもなく、私の正気を疑う反応を示すでもなく、むしろどこかがっかりした気配さえ漂わせて、腑に落ちた顔を見せた。ダースベーダーには興味を示していたくせに魔王と判明した途端、幽霊の正体見たり枯れ尾花とばかりにテンションが下がる意味がわからない。一体何が違うと言うんだ。私にしてみればダースベーダーも魔王も同じくらい遥か遠い星の住人で、引き合いに出すのもおかしな話だが河童の方がまだ現実味がある。
 私たちの声が地獄耳に触れてしまったか、突如、鶏肉を物色していた魔王の首だけぐるりと後ろに回転した。物陰に隠れることをとうにやめていたせいで、誤魔化しようがないほど完璧に目が合った。
 強引に見なかったふりをしてスー……と陳列棚の奥に消えていくのも今更不自然でしかない。私は今さっきこそこそと観察していた不審さを笑顔の裏に押しやり、無難な挨拶を決めようとした、のだが。
「カオリ、そなた余をたばかったな」
 ずい、と一歩を踏み出してきた魔王はそんなことを言ったのである。体躯に比例してその一歩は大きく、瞬く間に目前にまで迫った。つい飛び引きそうになったが、ちょうど私の背後に陣取っていた宮間くんが妨げとなってそれは叶わなかった。
「たばかったとは、一体なんのお話で」
 心当たりはない。全くない。わざわざ一番厄介そうな相手を選んで陥れるわけがない。
 魔王は冷たい刃を思わせる瞳をひたりと私に向けた。
「三枝の根城にそなたが言う獣などおらぬではないか」
「え? ああ、犬?」 
「屋敷に近づこうものなら番犬どもが束になって襲いかかるとそなたが申したのであろう」
 三枝さんを訪ねるにあたっての心構えとしてそう忠告したのは間違いないが、少しばかりニュアンスが捻じ曲がって伝わっているような気もする。
「誰がいました?」
「女だ。若くはない」
「それお嫁さんですね。多分おじいちゃんが留守だったんじゃないかな。いるときは庭に柵立てて走らせてたりするんですけど、基本は室内飼いだから」
 私がそう説明すると、魔王は憮然としたままとりあえずといった感じで頷いてみせた。その様子は剣呑というよりも、不貞腐れたような子供じみたもので、違和感を覚えた。
 おや。これは。騙されたことに怒っているというよりも。
「へー魔王、犬見たかったんだ?」
 呼び捨て!
 ごく自然に会話に加わるだけで敢闘賞だというのに、こともあろうに敬称略してのけた幼馴染の蛮勇に目を剥く。こやつは鉄の心臓かとハートの震えが止まらない。
 幸い魔王に無礼者を手打ちにする意思は見られず、顎に手を添えて問いに答えあぐねていた。いささか難しい顔をした魔王はひと呼吸おいて。
「……あの毛玉どもの手触りと愚かなまでの忠誠心は、まあ、悪くない」
 なんだただの犬好きか。前回見せた妖しい笑みはワンワン天国に対する期待にテンションが上がり過ぎただけか。うっかり恨みでも買ったかと一瞬すくみあがった自分が虚しい。
 魔王はというと、何事もなかったように顔つきを美しく整え、下々の者を睥睨する覇者の視線をもたげた。拍子抜けする間もなく、眼光が全身を照らしていく。ただ主な標的は私ではなく、呼び捨ての男・宮間くんの方だった。
「その者は瀬野の一族か」
 無遠慮な視線をたっぷりと這わせてから魔王がそう口にしたので、思わず私たちは顔を見合わせた。宮間くんと私は顔のパーツひとつ取っても全く似ておらず、与える印象もまるっきり違う。生まれて初めて受けた誤解に、私たちはそれぞれ苦笑いで否定した。
「俺が瀬野の? まさか」
「宮間くんは近所の友達です」
 ほう、と魔王は大真面目に呟いた。
「カオリとそう変わらぬ身の丈ゆえ、さては弟と」
 あ。
 傍らの空気が冷える。私は真顔のまま青ざめた。
 魔王が言うように宮間くんは男子にしては小柄な方で、私と同じくらいの背丈しかない。年齢を考えればこれからいくらでも伸びるだろうし、そう悲観するような時期ではないと思うのだが、男にとって軽視できない問題らしく、己の身長についてそれはそれは過敏になっているのである。ある意味禁句だ。今の発言はそこに手づかみで触れた。
 場の空気を見事凍らせておきながら、魔王はどこ吹く風で更に暴言を重ねていく。
「年格好を鑑みるとそなたはどうも丈が足らぬようだが、何かの罰によるものか」
「おいこいつ殴っていいのか」
「いやそこはぐっとこらえて」
 魔王相手にグーはまずい。
 額に青筋を浮かせている宮間くんをとりなしつつ、せめてものフォローとして「悪気はないんだよたぶん」と小声で囁くと「悪気ないから手に負えねえんだよ」と忌々しく打ち返された。ですよね。
 肩書きに「王」がつく存在に矮小な人類のナイーブな問題など伝わるはずもなく、魔王は人間で言うところの「きょとん」というべき表情で私たちを見下ろしていた。きょとんじゃないよ。板挟みの私のいたたまれなさも考えて欲しい。が、人里に降りたてほやほやの魔王に、言葉を選べる器用さなど期待できようはずもない。だからこそ初手からコンプレックスに塩をねじこむという荒業をやってのけたのである。恐るべし魔族の無神経。
 と、その時、場にそぐわぬ軽やかなメロディが三者に割って入った。宮間くんの胸ポケットから奏でられたそれは、彼が手に取る前にほどなく沈黙した。宮間くんは面倒そうに取り出した携帯を開いて、それから「げ」と短く呻いた。
「やべーマヨネーズまだかって」
 手にした買い物袋を思わず見やる。本人も忘れていたようだが、どうやらおつかいの途中だったらしい。にわかに慌てだした宮間くんは出入り口に向かって身をひねった。
「すげえキレてるっぽいし俺帰るわ。そんじゃな瀬野」
「うん気をつけてー」
「帰路を急ぐがいい、小さき者」
「覚えてろよてめえー!」
 下っ端チンピラのような捨て台詞を残し、宮間くんは足早に消えていった。彼は足が早い。最近は落ち着いているが手が出るのも割と早い。過去には、渡り廊下ですれ違いざまにコマネズミみてえ、とのたまった先輩をぶん殴ったというホットな逸話もあるので、重々口には気をつけてもらいたい。私は溜息をついて魔王を見上げた。
「だめですよ宮間くん背が低いの気にしてるんだから……」
「解せぬな。小回りがきいて使い勝手がよかろう」
 どこかで似たような言い回しを聞いたような気がすると思ったら、先日訪れた新車販売の営業マンが軽自動車について同じ評価を下していた。
「それ本人には絶対言わないでください」  
 怒髪天をつく予感しかしない。
 恐らく半分も理解できていないであろう魔王は、否とも応とも返事せず、わずか首をかしげるだけにとどまった。そのまま頭部に手を伸ばし、漆黒の髪を肩に落としながらフードを取り去れば、顕になった白い肌と赤みを帯びた傷が爛々とした灯りを弾く。そこにはめ込まれた両目が何かを探し求めるようにして虚空を何度かさまよっていた。 
「カオリ、小麦粉は何処で手に入る」
「あ、この先です」
 方向を示しつつ先導すると魔王は大人しく私のあとをついてきた。 
 何の気なしに魔王の手元を覗くと、カゴの中には、先ほど選んでいたらしき鶏肉に玉ねぎや人参、カレールウが二箱。そのどれもが特売品であったり、値引きシールが貼られていたり、もれなくお買得な品ばかりで、うちの母よりよほどしっかりした買い物をしている。買い逃しのないよう、チラシまで持ち歩くという徹底ぶりだ。
「今夜はカレーですか」
 魔王はひとつ頷き、よくぞ見抜いたと口元に不敵な笑みを添えていたが、これほど推理しやすいラインナップもない。
「隠し味加えるとおいしいですよ」
「隠し味とは」
「うちはココアとかインスタントコーヒーを入れムホ」
 途中で飛んできた白く平たいものによって、私の発言は呼吸ごと封じられた。魔王の手のひらは大きく、私の口はおろか目鼻すらたやすく蓋をしてしまえるだろう。カオリ、と牙を擁した唇が開く。
「警戒心が足らぬという余の忠告を忘れたか」
「ムホ」
 覚えてはいるが塞がれているので答えようがない。
 身をかがめた魔王は、その迫力の面立ちを息が触れそうな距離にまで近づけると、声に険しさを滲ませた。
「このような誰が聞き耳を立てているともわからぬ場で、軽々しく秘伝など口にしてはならぬ」
 身を滅ぼすやも知れぬぞ、とまで言い添えられてしまった私のこの時の心境、果たしてお分かりいただけるだろうか。ひととき息苦しいのも忘れて、ただ「OH……」と異国の感嘆が抵抗なく口から滑り出す始末である。口が遮断されていたので外に出ることなく喉の奥に戻るだけだったが。
 私は巻きつくようにして塞いでいる魔王の手を両手で剥がし、肩で息をしながら首を振った。
「秘伝ってほど、大それたものじゃ、ないし、どこの家庭でも、やってることなので、」
「まことか」
「まことです」
「奪われたが最期、四肢の自由を失うということも」
「ないです」 
 もう少しソフトな例え話をお願いしたい。
 左様か、ならばよし、と尊大に胸を張った魔王から謎の許可が下りて、私はようやく先に進むことができた。なかなかどうして、生きづらそうな御仁である。

 目当ての小麦粉(これも今日の目玉特売の品である)を無事かごに入れ、私は母と合流するべく、魔王は会計を済ませるべく、レジへと向かった。その道すがら、壁に貼られているチラシが目にとまり、私は咄嗟に会計待ちの列に並ぼうとしていた魔王のマントの裾を引いた。が、魔王が振り返る速度は遅い。王たる者のゆとりなのか、この人はいかな動作もやけにゆっくりである。普通の人の倍ほどの時間を要して振り返りきった魔王に、私は買い物かごの商品を指差しながら告げた。
「これ、カレー二箱買えませんよ」
 指でバツのマークを作ってみせると、魔王は「む」と言って、眉間に皺を寄せた。
「なにゆえ」
「おひとり様ひとつみたいです」
 魔王が折りたたんで手にしているチラシを目の前で広げさせて注意書きを見せる。目を落としてそれを確認した魔王は再び綺麗に畳んで脇に差し込んだ。眉間は未だ刻まれたままで、今ひとつ納得できない様子が見て取れる。
「一つなどと狭量なことを申すな」
「私に言われましても。一人でも多く買えるようにっていう店の配慮というかお約束というか」
「掟か」
「まあそんな感じです」
「ならば抗えぬな……」
 苦悶の表情でカレールーに手を伸ばす様は、志半ばで撤退を余儀なくされた一国の将といった風情である。強き者の弱り落ちた姿は人の心を惑わせるもので、もちろん私にも同じことが言える。やにわに湧いて出た同情心に丸め込まれ、我知らず助け舟を出していた。
「あ、いやでも、私もレジに一緒に並べば二個買えますし」
「そのような奇策通じるというのか」
「いけますってほら」
 列の先では歩くのも覚束ない幼児を含む、三人の我が子を引き連れた母親がカレールウ四箱の精算をしているところだった。卵や油などのセールにはよく見られる光景である。それを心強く感じたのか、魔王の顔に余裕が戻った。
「ふ、なかなか知恵が回るものよ、人の子が小賢しい」
 魔王は悦に入った様子でマントを大仰に翻した。それだけでも充分、他人のフリを決めたい気持ちにさせる派手な立ち振る舞いだったが、続けざまに「カオリ、余に従う影となれ」と結構な大声で命じられてしまったので、私はやや顔を伏せながらレジの列に並ぶ魔王の背後についた。

 なんとなく予想していた通り、母の買い込んだ量は私がカートを押していた時より更に増えていた。
 持参した数枚のエコバッグも根を上げる荷物に膨れ上がり、指がちぎれそうな思いをして抱えていたところ、魔王が手を貸してくれたので、車まで運んでもらった。
 後部座席にみっちりと詰め込んで、勢いよくドアを閉める。いやはや助かったと母は満面の笑みだった。
「やっぱり男手があるっていいわね」
 荷物持ちのような真似をさせて許されるのかと若干はらはらしてしまったものの、確かにこういう場面ではありがたい。
「もし良かったら乗っていきます? どうせ帰り道は同じなんだし」
 礼も兼ねてか、母は荷物でひしめき、あまり余裕があるように見えない後部座席を指して同乗を勧めたが、魔王はその申し出を辞退した。賢明だ。残りスペースを考えると魔王の体格では相当無理な体勢を強いられるだろう。
「あれ、そういえば何で来たんですか? 車? バス? タクシー?」
 まさか自転車か? 車輪にマント引っかからないか?
 魔王はどれにも首を縦には振らず、毅然と答えた。
「余に乗り物はいらぬ」
 途端、風が布を煽るに近しい音がして、私は束の間目を閉じてしまった。次に開いた時には、コウモリの羽を引き伸ばしたようなそれが二枚、黒光りしながら対となって、魔王の背中から伸びていた。一瞬にして生えたものか、それともベールの中に収められていただけか。どちらにせよ、もともと疑いようもない魔王の存在感に、更なる説得力が加わったのは間違いない。鬼に金棒、魔族に羽。ますます磨きがかった魔王らしさに膝をつく思いだ。
 魔王だ。本当にこの人魔王だわあ。なんでサンダースの駐車場にいるんだろう。
「さらば」
 魔王は出で立ちに不似合いな爽やかな青い空へと羽ばたいていった。その後をカラスが追うように飛んでいく。
 半ば呆然と見送った私をよそに、車にさっさと乗り込んだ母は「エコよねえ」と感想をもらし、エンジンをかけた。


    
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