11話目 / もう一人来ちゃったの巻 |
魔王と勇者が覇権をかけて対立する世界は一つではないと、魔王の口から語られた。 近くもあり遠くもある、いくつもの完成した世界がそれぞれ魔王と勇者を擁し、交錯することも干渉することもなく、並行するように成り立っている。 誰が偽物というわけでもない。すべての魔王がその世で唯一の魔王であり、また勇者も無二の存在である。魔王であり勇者であることに違いはないが、管轄が同じでなければ、どれほど死力を尽くしたとしても互いに命を奪えない、と。 だからこそ魔王は勇者に繰り返し告げていたのだ。倒すなど無駄なことだと。 いやでも、魔王さんも結構な術とか繰り出そうとしてましたよね、というようなことを言ったが綺麗に無視された。 「勇者さんの様子だと知らなかったみたいですけど」 「殆どの人間どもは知らぬであろうな」 「なぜに」 「必要がない」 なるほど。自分の知らぬところに世界がいくつもあったとして、自由に行き来できるわけでもなく、影響を及ばすこともないならば殆ど意味を感じない。それより日照りが続くとか今月分の給料の手取りとか、現実的な方へと関心の天秤は傾く。 魔王は続けた。 「勇者なき時期は凪(なぎ)、勇者が生まれ落ちれば時化(しけ)と呼ぶ。余の治める地は凪を迎えたばかりに等しい」 ゆえに余を討とうと立つ勇者のはずもない。 だが、と声を一層低く響かせた。 「管轄外の勇者であっても安寧の地を荒らし、余の参謀を手にかけたこと許しがたい」 「死んでません」 「本来なら敷地を跨がせるも我慢ならぬところだが……二度はないと肝に銘じよ」 ソファに浅く腰掛けた魔王はじろりと睨めつけた。その正面にはうなだれつつも、どこか不貞腐れたような若い男の姿。 まとっていた鎧を脱げば、その下は革のベストに簡素なシャツとズボンといった素朴な身なりで、彼に勇者たる威光を与えていたのは物々しい見栄えによるところが大きいと改めてわかる。今の風貌では小奇麗なアルプスの羊飼いにしか見えない。 ここは勇者風に言うなら忌まわしき魔王の根城の玉座の間。 一般的に表現するなら魔王宅のリビング。 あの後、勇者の目立ちっぷり凄まじく、路上にいるだけで人目を惹きまくった。 面倒事に関わるまいとする回避性能に優れた都会と比べ、田舎はスルー力が極めて低い。珍妙なものを目にすると、二度見三度見は当たり前、中には戻ってきてまで確認する物好きもいる。そんな目ざとい輩が、こんな耳にも目にも騒がしい異物を見逃すわけがない。 当然、好意的な眼差しはほとんどなく、どれも怪訝な、不審や不安をありありと物語る視線だった。大した通らない車の運転手は皆例外なく振り返り、家に戻ったはずの鈴木さんはやっぱり心配そうに様子を伺っていて、散歩中の犬は勇者に噛みつこうとした(魔王は撫でようとしていたが犬が怯えた) その内いずれ遠からず本当にパトカーがやって来そうな気配が漂い始め、私は正直「それならそれでもいいんじゃね」という思いもあったのだが、魔王がそれをよしとしなかった。 こんなもん引き渡された警察の方が困る、というのが魔王の言い分らしい。確かに言葉は通じるが常識が通じにくい相手である。謎の熱意と意味不明な供述に手を焼くお巡りさん姿が目に見えるようだ。仕方なく、これ以上人目につかないよう、魔王邸に引き入れ、今に至る。 ちなみに買った卵は割れるまではいかずとも2個ほどヒビが入っていて、魔王は少し悲しそうだった。 「聞いているのか」 「……聞いている」 大人しくなったものの、どこか反抗的な姿勢を崩さない勇者はそっぽを向いた。構図だけ見ると呼び出しを食らった生徒と担任教師の指導室だ。片方、一介の教師と見るには迫力がありすぎるけれど。 ソファの背にもたれかかり目を合わせようともしない勇者の態度は傍目にも好ましいものではない。が、心情的にわからないでもない。 勢い込んで殴りに来た相手が人違いと知れ、拍子抜けしたものの、引っ込みがつかなくなったのだろう。区画違いとは言え、魔王には変わりはない。いきなり手のひらを返したように悪いことしたなヘイブラザーと握手する気にはなれないが、かといって敵意を丸出しにするわけにもいかず、狭間でゆれながら意地を張っているというところか。 聞けば、何人(なんぴと)も受け付けずに固く閉ざしていた聖剣を抜き、勇者として誉を受けたのはつい一週間前のことだという。 ああ、と特に驚きもなく納得が先行した。無駄に前のめりの姿勢や、力みすぎての空回りも、そう考えれば頷ける。 つまり勇者といってもデビューほやほやなのだ。危うい。免許取り立ての若者がハイウェイをかっ飛ばしたくてウズウズしている感じを受ける。やってしまうのだ、こういう時期は。浮かれて過信して、峠とか攻めたくなってしまうのだ。町内の磯山さんの息子さんも免許を取って間もなく、納車したての新車ごと谷底に落ちかけ、三年分くらい老けたと聞いたことがあるし、痛い目を見ることが多い。血気盛んな若人に、刃物とスポーツカーを与える際はくれぐれも慎重に。 「魔王の座にあるものでなければ、この地を訪れるは容易ではない。如何にして踏み入れた」 尋問を横目に、私は冷えた麦茶をすすった。テーブルには三つグラスが並べられているが、勇者の分だけコースターがない。魔王と勇者という立場上の線引きともとれるし、単なる嫌がらせともとれる。おもてなしの心を尽くす魔王にしては意外といえば意外、地味すぎてどうでもいいといえばどうでもいい。 勇者は明後日の方向を向いたまま渋々答える。 「……魔王の居場所へ届けてくれと神殿に捧げた」 何を、と私と魔王が視線で促すと、ぎこちなく口だけが動いた。 「一生に一度のお願いを」 「安い!」 思わず声を上げてしまった私に、勇者は初めて振り向き、ぎらりと青い目を光らせた。 「安いとはなんだ安いとは! 一生に一度だぞ!」 「やっすいですよ! きょうび小学生でも言わない」 そして大抵、その文言を使う輩は一度では済まない。月刊くらいの頻度で伝家の宝刀を抜いてくるのである。 しかし祈っただけで転送のサービス。神殿とはごねた子供の泣き言のような願いをやすやすと聞いてくれるようなお気軽なスポットなのだろうか。そんなハードルの低さで人々の望みを叶えていたら、世の中誰も働かない気がする。私もたぶん寝て暮らす。怠惰な心中を読み取ったか、魔王の横顔が正面を向いた。 「祈れば叶うなど凡夫の世迷い事に過ぎぬ。理(ことわり)を覆すほどの神気や執念ならば稀に成すこともあろうが」 理(ことわり)を覆すほどの……? 私は思わず勇者の顔を見やった。一旦は引いていったはずの生気が息を吹き返すように、かの瞳に力が戻る。 「そうだ一心に祈れば何事も通る! この思いの強さこそが希望となり勇者として奮い立たせるのだ!」 「ああ……うん……」 急に元気になってしまった勇者と反比例してこちらのテンションは下がる。なるほど、思い込みの強さは随一だ。【一念岩をも通す】の諺(ことわざ)がぼんやりと浮かぶ。そして同時に【無理が通れば道理が引っ込む】も浮かんだ。この並外れた、根拠無き自信が世の摂理という鍵を開かせたと思うと感心すべきなのか戦慄すべきなのか迷う。 「勇者ってみんなこんなのなんですか」 だとしたら夢も希望もない。向かい側には聞こえないように耳打ちすると魔王は小さく首を振った。 「そうであれば人の世は跡形もなく滅びておる」 辛辣。 「……勇者として立つ者はそれぞれ秀でた才を持つ。知略しかり人徳しかり」 魔王は冷ややかな声で告げた。 この者の場合は、 「天運。これに尽きる」 ですなあ、全くですなあ。私は大きく頷いた。 パラメーターをグラフで表示すれば、さぞや偏ったレーダーチャートが出来上がることだろう。勇者は複雑そうに眉をしかめた。 「なぜか褒められている気せんな」 「でしょうね!」 褒めてないしね! しかし天性とも言える運と思い込みで超えるべきでない境界を超えたものの、やはり裏技は裏技。正規ルートではない。精度は低く、目的とは異なる魔王の元に飛んだというわけだ。 一週間前に勇者となり、その数日後にはショートカットで魔王近くに下車。 勇者の足取りを追えば追うほどに残念な気持ちが押し寄せる。私が考えていた勇者の旅と違う。スピーディに鬼退治を片付けた桃太郎だって、旅の途中で仲間を募ったりとそれなりに展開があったというのに、この勇者の物語性のなさときたら。 麦茶に沈んだ氷が溶け、グラスの中で涼やかな音色を奏でる。 勇者はそれを飲み干し、ごりごりと音を立てて氷を噛み砕いた。図々しくもグラスを差し出しておかわりを要求している。魔王も魔王で何故応じる。宿敵のグラスに麦茶を注いでる場合か。 水をついで回る店員のように私のグラスにも麦茶を注ぎ足し、ポットを冷蔵庫におさめた魔王は再びソファに腰をおろした。 「事情は読めた。去れ」 端的な言葉にグラスに口をつけていた勇者の動きが一瞬止まった。 「貴様のあるべき場所ではない」 魔王の言う通り、勇者にとって意義のある地ではない。探し求める敵はなく、ついでに言うと味方もない。魔王に柔軟な土地柄ということは、勇者には風当たりがきついということだ。アウェイと言わずしてなんと言おう。 黙した勇者はグラスを大人しく卓上に戻した。その健康そうな肩と澄み切った目をわずか落として。 「……らん、」 「え?」 「帰り方がわからん……」 帰れないと言われても帰っていただかねば困る。リビングに勇者を残し、台所でこそこそと私と魔王は今後について模索した。 「魔王さんの魔力やら術やらで帰せないんですか」 魔王は首を振った。己の管轄内に送ることはできても、他の魔王が司る領地は侵せないらしい。 炙られた薬缶が湯気を吐きながら唸る。 暑さに喘ぎながら火を止めた時、ふと置き去りにしてきた疑問が首をもたげた。 「……ていうか実際のところ、何人いるんです魔王とか勇者とか」 正確な数は知れぬが、と前置きした魔王は沸騰した薬缶を持ち上げてポットに注いだ。 「余が知る限り十はくだらぬ」 「うわー結構いるー」 勝手な意見と自覚しているが、魔王や勇者という立ち位置を特別視していた身としては、唯一とは言わずとも、できれば三人以内程度におさえて欲しかった。当日限りという触れ込みの商品が毎日店頭に並んでいるのを見てしまったような気持ち。ありがたみに欠ける。 センチメンタルをよそに、魔王は私に背を向けて製氷機に水を足すついでに冷凍庫の整理をしている。これが最低あと十人いるのか……と不思議な思いでその後ろ姿をまじまじと見ていると、振り返った魔王は何を勘違いしたのか、やれやれといった顔で冷凍庫から何かを出した。アイスクリームだ。 「欲しければ欲しいと言えばよかろう。匙を持て」 「いやそうじゃなくて、でもいただきます」 確実に的外れだったが断る理由はなく、私は尻尾を振って飛びついた。高い室温に触れたアイスクリームはすでにスプーンを難なく受け入れるほどに柔らかい。行儀が悪いと知りつつも私は台所で立ったまま食べ始めた。バニラとチョコが半分ずつ入っているのが嬉しい。二口ほど味わったところに、どたどたと荒い足音がした。 「なんだ! なにを食っている!」 勇者に見つかってしまった。居間からは見えない位置に立っていたつもりだったのになんという目ざとい奴。 「俺の分は!」 「ない」 冷凍庫より冷えた声は当然ながら魔王のものである。この状況で自分の取り分を要求できるその精神力だけは評価したい。 魔王にすげなくあしらわれた勇者は、私の手元のアイスに狙いをつけた。思わず隠すように両手で抱える。 「くれ」 「や、やだ」 「全部とはいわん」 当たり前だ。 「半分くれ」 「……ください」 「ん?」 「半分ください、でしょうそこは。最初から思ってたけどお願いする時の態度があまりにもひどい! 勇者っていうより山賊!」 強くスプーンで指し示すと、勇者は面食らったのか口をへの字に曲げた。それから視線をさまよわせて魔王の方を見たが、援護を得られるわけがない。結局勇者はきまり悪そうに肩をすくめた。 「……半分ください」 「よろしい」 溜飲が下がる思いでアイスのカップを譲り渡した。 いくら常識を踏み抜く暴走勇者とはいえ相手も獣ではない。真摯に訴えればきっと伝わる。私はうんうんと頷き一人で悦に入っていたが、それがいかにアメリカの菓子より甘い考えであるか、ほどなく思い知らされる。 「あー!」 愕然とした。戻ってきたアイスクリームは、チョコ部分が全て食べ尽くされている上、1/5ほどしかカップには残っていない。 半分って。半分って言ったのに。この男の半分の概念とは一体。 糾弾の意思を込めて睨めつければ、勇者は何を責められているのかわからないといった訝しげな目で見返してきた。だめだ。根本的にだめだ。 「魔王さん」 「カオリ」 「妖刀を貸してください」 「落ち着かぬか。つまらぬ者を斬っては徳川家の名折れ」 「止めないでください口で言ってもわかんない奴ってのはいるんです吉宗だって許してくれます」 私が羽交い絞めにされているのを振り払おうと夢中になっているその時である。カツコツと何かを激しく叩く音がした。見れば、魔王の使い魔であるカラスが嘴で窓枠をつついていた。 「戻ったか」 家に入る前、魔王がカラスをどこかに差し向けていたのを思い出した。 迎え入れられた小さな配下は従順に魔王の腕へと降りた。言葉を解しているのか、別の形で意思の疎通をはかっているのか、物言わぬカラス相手に魔王は何ごとか呟き頷いている。 「ご苦労。羽を休めるがいい」 一度頭を垂れるようにして、黒い翼は窓から飛び立って消えた。それを目で追う前に遮ったのは魔王の重い声。 「件の魔王と渡りがついた」 「え」 「所在が割れば上々と睨んでいたが、首尾良く運んだと見える」 魔王は勇者と私を順番に眺め、気配を舐めるように言った。 心せよ。 ――間もなく来る ピンポーン。 来た。本当にすぐ来た。 軽やかなチャイムとは裏腹に空気が張り詰める。誰もが動かない中、何故か魔王に目配せされた私が玄関に進み出ることになった。深呼吸してからドアノブに手をかける。回す直前、背後から咳払いが飛び、慌ててドアチェーンをセットした。自分で出ればいいじゃない。 「どちら様、でしょうか……」 「あー? 俺俺」 軽い。しかも想像以上に声が年老いている。 「俺って言われてもわからないので。名乗っていただかないことにはこのドアは開けられません」 こんな状態で開いたら後ろに控えている黒い人にきっと怒られる。 「ん? おめえさん誰よ。兄ちゃんじゃねえな」 「いやいやこっちが誰かって聞いてるんですけどって、兄ちゃん?」 その呼び方と気安い物言いから連想される人物は一人しかいなかった。私は猛然とドアを開いた。 「三枝さん!?」 「お、なんだ夏織ちゃんか」 チェーンの存在を忘れていたせいで開ききらないドアに激突しそうになる。隙間の向こうで見覚えのある顔が訝しげに私を見ていた。 「なんでこんなとこに。やっぱりデキてんのか」 「もうその話いいから」 身構えた分、どっと気が抜ける。タイミング的にすわ襲来かと決めつけたものの、魔王が暮らしに馴染んでいる以上、宅配やご近所さんが訪ねてくる可能性だって大いに考えられるのだった。緊張して損した。私は肩透かし半分、安堵半分の息を吐き、扉に手をついた。 「魔王さんに用だよね? ちょっと待ってて」 チェーンを解こうと一旦閉じかけた扉に三枝さんの声がかぶさる。 ――いや俺が用あるんじゃなくてよォ 次に開けた時には、目の前の光景がすっかり変貌していた。壁だ。三枝さんだったはずが濃い紫色の平面に取って代わられている。眼前でカーテンを閉じられたような閉塞感から逃れたくて一歩後ずさると、高い位置に顔らしきものが見えた。褐色の肌に光る目は赤く、頭部の両側にぐるりと角が曲線を描いて。およそ人から外れた、その姿はどう見ても。 「魔王と申すが、魔王はおるかな」 私の知る魔王とは異なるものの、明らかに魔王の形をした男は、産毛を嬲るようなしっとりとした低い声を出した。陽光を受け、無造作に垂らされた金の髪が輝きを放つ。 「お、おおお、おります」 目の前にも家の中にもおります。私は目を白黒させて呼吸を飲み下した。金髪の魔王が後ろへ首をひねり、壁にしか見えなかった紫のベルベットが揺れ、壁ではなくローブだとようやく知れた。 「サエグサとやら、先導ご苦労。慣れぬ道に難儀していたが、いやはや助かったわい」 「いやァ俺も郵便局行くついでだったからよ」 景色に取り込まれて消えたと思われた三枝さんの朗らかな声がした。どうも道に迷いかけた魔王をここまで案内してくれたらしい。すぐそこにいるようだが魔王が目隠しになって姿は見えない。 「しばらく来ないうちに様変わりしたのう」 「いうほど大した変わってねえよ。まあ墓石は増えたけどな」 会話だけ聞いてると老人会の集まりのようだ。片方は年寄りではない、というより人ではないが。 「んじゃ俺はここで。パチンコ行ってくる」 夏織ちゃん兄ちゃんと仲良くなーという誤解を招く台詞を吐き、見えないまま三枝さんは去っていった。郵便局行く予定はどうした。 ふと気づくと三枝さんを追っていたはずの赤い目がひたりと私を見下ろしていた。息苦しさを覚えるような視線を浴びせたあと、金の髪を持つ魔王は口を開いて一言。 「デキとるのか」 「デキてません」 今そんなこと心からどうでもいいのである。身を包んでいた緊迫感が高速で遠のいた。 「とりあえず入ってくださいどうぞ」 招き入れる為、私は一歩下がった。改めて見ると本当に縦に長い。見上げ続けると首を痛めかねない長身の魔王よりも、更に体格が良いのではないだろうか。 大丈夫か。入れるか平均的日本人設計のこの家屋に。巷でよく耳にする、買った家具が大きすぎて家に入らなかった事例がよぎる。 「おう久しいな。邪魔するぞ」 猫背気味で玄関をくぐった魔王が、私ではない位置の目線で薄く笑った。振り返ると奥に引っ込んでいた魔王の姿が背後にある。 「のこのことよく来たな」 応じる魔王に微笑みはない。いつも通り冷淡な表情が張り付いている。親しさからかけ離れた面構えだが、交わす言葉から察するに面識はあるようだ。 大きな体をかがめ、魔王(大)はこちらが何か言ったわけではないのにブーツらしきものを脱ぎ、育ちの良い娘さんのようにきちんと揃えていた。土足のまま上がろうとしてひと悶着起こした勇者を思うと、その差は歴然である。 「よくも厄介事を持ち込んでくれたものよ」 「そう言わんでくれるか。我も寝耳に水でな」 ぺたぺたと音を立て、足に合わないスリッパで先を進む魔王と魔王が居間の扉を前にして足を止めた。巨躯が二体並ぶと、さして広くない廊下がいよいよ狭苦しく見える。 「勇者はこの先ぞ。考えの足りぬ若造だがそれゆえ何をしでかすかわからぬ」 魔王が扉の奥にいるであろう勇者を視線で示すと、赤い目が揺れ動いた。 魔王の血は勇者を知る。誰に教えられずとも猫が鼠を狩るように、相容れない敵であると本能的に悟るのだという。 「保養地であることをゆめゆめ忘れるな」 「承知の上よ」 釘を刺されてか、黄金色の魔王を取り巻いていた闘気は散った。平静を語るように風を孕んでいた髪がローブに沿って流れ落ちる。木製のドアとは思えぬ重厚な音を響かせて、紫のローブが居間の敷居を跨いだ。 ゴッ 「そこは低いゆえ気を付けよ」 「先に言ってあげるべきでは」 来客が頭部を打ち付けた後の忠告はあまり意味をなさない。頭をさすりながら、なびく金髪はリビングの奥へ吸い込まれていく。すぐにその後を追おうとしたが、黒い魔王が引き止め私に何かを手渡した。細長く、ずしりとした重みが正体を語る。これは先ほど私自身が貸せと騒いでいた徳川家の模造刀ではないか。 「今のみこれを授ける」 手の内の、三つ葉葵の紋を眺めて息を飲む。もしかして。 「き、斬れと」 「違う」 魔王の鋭い目線が居間の方へと投げられる。 「あのうつけが我を忘れて暴れるようなことがあれば、先ほどと同様脇腹を突け」 ああそういうことか。勇者にとって真の仇の登場だ。目にすれば頭に血が上ってまたしても同じ過ちを繰り返すかも知れない。しかし魔王にとっても勇者は宿敵。管轄外の魔王でさえも一瞬臨戦態勢に陥ったくらいだ。同じ領域の魔王ならは尚更血が騒ぐのではないだろうか。 「魔王側の方も暴れたりとかしませんかね」 「あれは魔王として在位も長い。出し抜けに出会えば刃も交えようが、事情を知った上でそれはなかろう。あしらいくらいは心得ている筈ぞ」 その口ぶりから、かの客が魔王より年嵩であることが伺える。魔王界の年齢事情については未だ謎のベールに包まれているため正直よくわからないが、在位が長いならば経験も豊富だろう。生き急ぐ未熟な勇者の正義の暴力も、きっとベテランの魔王がうまく諌めてくれる。いくばくかの安心感を覚えて、私は魔王とともに居間へと足を踏み入れた。 「よく吠える小僧よのう、その口二度と叩けぬようにしてくれようか!」 「やれるものならやってみるがいい! 光を守護とする勇者の俺に忌まわしい魔の刃など届くものか!」 デジャヴかと思った。 リビングを舞台に魔王と勇者が全身全霊でいがみ合っていた。 その光景は、魔王の顔ぶれが入れ替わった以外は先ほど庭先で見たものとほぼ同じであり特筆すべきこともないので詳細は省かせていただく。とりあえず私は魔王の指示に従い、両者の脇腹をえぐるように強く突いた。 |