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13話目 / お引き取りの巻
 


 失恋の痛手は大きかった。
 勇者はすっかり大人しく、というより萎れてしまい、梅雨の部屋干しにも劣らぬじめじめとした雰囲気をあたり一面にまきちらしていた。傲慢な態度はなりをひそめ、無闇に魔王に食ってかかることはなくなったが、受け答えには覇気がなく、身にまとっていた勇者たる輝きも今やくすんでいる。死にかけの虫の方がまだ元気だ。
 惨状を見かねた黄金が「女なんか他にもいるだろ」とか「若いんだからこれからいくらでも出会いが」と片手間に声をかけても、ハートブレイクの若者にはひとつも響かず「マリアンヌは一人しかいない」「俺はもう誰も愛さない」などと酒と自分に酔い潰れたような台詞を吐いて、またびしゃびしゃと泣くのであった。そういうのは深夜二時くらいの客もまばらな場末の飲み屋でやって欲しい。
 今も絶えずすすり泣く、世の湿度を一点に集めたかのような陰気な物体を一瞥した。ソファに座ることすら拒み、リビングの一角で膝を抱えた姿が目に入る。ぼそりと黄金の声がした。
「使いもんになるのかあれ」
「さあ……」
 明らかに勇者としてのモチベーションが下がっている。暴れ馬にも似た荒々しいテンションにも手を焼いたものだが、落ち込めば落ち込んだでこれまた鬱陶しい。極端な男である。彼が備えているのはオンかオフの二種類のみで、微調整を受け付ける機能など望むべくもない。
「熱しやすく冷めやすい典型例よな」 
 黄金の魔王は頬杖をついたまま通販のカタログをめくった。ひと拭きで驚異の吸水力を誇るドイツ製クロスのページに目を留め、折り目をつけている。私も携帯を取り出しメールに目を通すことにした。
「魔王さん、母がお米頂いたんでいかがですかって。いま精米所にいるらしいです」
「ほうでかした。奉じるがいい」
「じゃ、いるって連絡しときますー」
 画面に目を落としたまま応じた。 
 ようやく嵐が収まったと思ったら、今度は勇者による葬式が始まってしまったので、皆何となく手持ち無沙汰の状態に陥っている。隣人の魔王などは、これ以上関わりたくないのかそれとも構うのも飽きたのか、リモコンを手に時代劇のDVDを鑑賞し始めてしまった。自由だ。まあ彼がこの家の主であり、客のメンツを考えると手厚くもてなす義務もないので、どう振舞おうが勝手といえば勝手なのだが。むしろ叩き出さないだけ寛容といえるだろう。
 それはそうとDVDが増えている。以前はBOXがひと箱置かれていた棚には、同じシリーズものとおぼしきタイトルが行儀よく並んでいた。魔王はひっそりと着実に、コレクションを蓄えているようだ。
 ふと横目で覗いてみれば、画面を観る鋭利な横顔は真剣そのもの。そういえば主役である将軍の一人称も魔王と同じく「余」であるし、親近感が湧くのかも知れないとぼんやりと思った。そして思っている内に、気づけば私も無鉄砲な将軍の活躍に夢中になってしまい、腹の黒い藩主が紙細工のように斬り倒されるクライマックスはもちろん、下町に平和と笑顔が戻る清々しいエンディングまで見届けてしまった。型通りとはいえ、安定感のあるスカッとした展開は実に気持ちがいい。お年寄りが安心して楽しめるはずだ。上様かっこいい。
 時計の長針がちょうど一周した頃、ぱん、と張りのある音色が鳴った。積んである通販の雑誌に一通り目を通したのか、黄金の魔王が最後の一冊を閉じたところだった。そのまま片付けるかと思いきや、魔王を手招きして「これ三つ買っといてくれんか」とさっき折り目をつけていたカタログを広げて見せている。魔王という生き物は、どうしても通販に物欲をくすぐられる性なのだろうか。
「さてと」
 黄金の魔王は昼寝から目を覚ました猫のように伸びをして、居間の一角を振り返った。
「いい加減もう帰るぞ小僧」
「……ああ」
 放置されている間に落ち着いたのか、勇者の涙は止まっていた。目は赤く血走って、瞳に生気は戻っていないものの、手を貸さずとも立ち上がれる程度には復調したようだ。が、脱いだ鎧をおぼつかない手つきで装着する姿はどうにも頼りない。こんなにも弱った人に未来を託しても大丈夫なのかと他所の世界ながら不安になり、手にしたせんべいの封をあけそこねた。
 紫色の布を引きずりながら近づいた黄金が、その高い位置から宿敵である若者を注意深く見下ろす。
「忘れ物はなかろうな」
 お父さんか。
 それに反抗するでもなく、虚ろな目で勇者は頷きかけた。
「多分ない…………あっ?」
 短く声を上げた勇者はそれまでの鈍い動きとは一転、目を見開いて勢いよく俯いた。いや俯いたのではなく、見下ろしたのだ。身軽すぎる己の腰を。
「ああ聖剣!」
「うわあ聖剣!」
 勇者が気がついたのとほぼ同時のタイミングで私も思い出した。ある。あるじゃないか。これ以上ないくらい存在感の忘れ物が。
 私と勇者が揃って青ざめたのを見て、魔王二人は訝しそうに首をかしげた。本当にどうかと思うのだが私も勇者も今の今まで聖剣について忘れていたため、どちらの魔王にも伝えていない。
 電車に忘れて駅の遺失物預かり所に届けられた旨をかいつまんで説明すると、両者は揃って片手で顔を押さえた。頭が痛い、とその表情が如実に物語っている。
「だから早く取りに行けって言ったのに」
「そのあとすぐに魔王が現れたのだから仕方ないではないかっ!」
 悄然とした気配はどこへやら。勇者が声を張り上げたところに低い声が割って入る。
「聖剣を置き去りにしては帰れんぞ」
「当たり前だ。誰が勇者の証を置いていくか」
 厳かな銀色を湛えた魔王に睨めつけられ、勇者は肩をいからせた。忘れたまま帰ろうとしていた奴が吐く台詞ではない。腕を組んだ勇者は渋い顔をつくってみせた。
「ただ取りに行く手段がな……」
「手段?」
 聖剣が待つ預かり所は二つ先の駅だ。それを告げると魔王は片眉を上げた。
「歩いてたどり着けぬ距離でもないが」
「徒歩は断る! 遠い! 日が暮れる!」
「うるせえよてめえが失くしたのが悪いんだろうが」
 黄金は勇者の頭にげんこつを食らわせた。本格的に親子みたいになってきた。
「だが時がかかりすぎるのもまた事実よ」
 土地勘のない勇者一人を向かわせるのもまた不安ではある。行く先で住民に迷惑をかけないとも考えられないし、かと言って従者よろしくついて歩くのも釈然としない。 
 自然と、私と魔王の物言いたげな視線が黄金のもとへと集まった。
「わかったわかった、我が運べばいいんだろうよ。ああ、くそ、厄日だな全く」
 苦々しく言い捨て、骨ばった指が荒々しく金色の髪をかき上げる。たぶん、勇者の尻拭いを魔王が請け負うのは根本的に誤っている。だが悲しいかな、この場で最もふさわしいのは誰かと考えた場合、受け持ちの魔王以外に見当たらないのだった。
 もちろん駅に向かうのだから、電車という交通機関も選択肢としてはある。しかし利用客の少なさもあって本数は乏しく、バス以上に待たねばならない。と、そこで私はもう一つ引っかかっていたことを思い出した。
「そうだ、無賃乗車した分のお金払ってきてください。ちゃんと謝ってきて!」
 強く訴えると、衝撃が走ったかのように魔王達の顔色が変わった。それぞれ目を見開き、無賃乗車だと? と言葉なく私と勇者を問い詰める。それに頷き答えると、聖剣を忘れたと伝えたと同じくらい、いやそれ以上に顔面を歪ませた。
「人の保養地でなにしてくれてんだお前……」
「うつけと思っていたがよもやここまでとは」
 うわあ……とばかりに、魔王が勇者に注ぐ目つきは蔑みに満ちている。引いている。いわゆるドン引きという態度である。古くからこちらの土地に馴染んでいるだけあって、魔王は物事の道理を心得ているようだ。特に隣人として暮らしている魔王の方は掟や約定を重んじる傾向にある。マナー違反どころではない犯罪行為を到底許すはずもなく、今にも斬って捨てると言い放ちそうな眼光を湛えている。
「軽率にして悪質。勇者の選別を仕切り直すべきではないか。世が荒れるぞ」
「な、なぜそこまで言われねばならん。それほどの大罪か?」
 勇者は本気で困惑していた。魔王らによる屑を見るような反応が理解できないらしい。
 聖剣が選んだくらいだ、恐らく勇者も悪い人間ではない。ただ、彼の価値観と常識が、私たちとは少し噛み合わないところにあるのだろう。それらは脆く不確かで、育った環境によって大きく変容する。正義とは何か答えが出ないように、一概にどちらが正しいとは言えない。
 が、今この場所は日本なので日本のルールが一番正しい。
「お金も持たずに電車に乗るのはアウトです。みんなちゃんと運賃払って乗ってるんですから」
「しかし悪気があったわけではない。たまたま持ち合わせがなくてだな、」
 むっと勇者は口を尖らせたが、私は構わず続けた。
「それでも立派な犯罪です。罪に問われますよ」
「罪人の扱いを受けるのか!?」 
「そりゃそうですよ」
「勇者でもか!?」
 勇者は仰天したようにのけぞった。
「勇者でもだよ! なにその特権階級!」 
 私も仰天してお茶請けを手の内で砕いた。
 元の世界では知らないが、こちらでは勇者の顔パスなど無効だ。勇者だろうが武者だろうが運賃は平等に請求されるし、よそのお宅のトマトの盗み食いもいけない。
 お互いカルチャーショックを受けている私と勇者の横で、魔王二人はちゃりちゃりと音を立てて小銭のやりとりをしていた。
 がま口財布から取り出された100円玉が、褐色の手のひらへと渡ってゆく。
「細かいのがないならとりあえず600円でいいぞ」
「待て、このようなこともあろうかと密かに硬貨を蓄えていた。貸し付けてやろう」
「おう、530円ちょうどか。助かるわい」
 運賃530円。勇者が貨幣を持っていない以上、魔王が立て替えるしかない。
 決して高額ではないが、工面するのがあの勇者の為だと思うと、たかが530円、されど530円である。
 小銭を懐にしまいこんだ黄金は、勇者の首根っこを掴んで「あとで絶対返せ」と凄んだ。


 ◇◆◇


 駅を目指して羽ばたいた二人が戻ってきたのは、大型テレビに映し出される将軍の活躍が2話目に差し掛かる頃、そして私が二個目のアイスを空にする頃だった。

 双方、ぐったりとしていた。
 最近艶がなくなってきたという羽で勇者を抱えて飛ぶのは心身ともに負担が大きかったようで、黄金の疲労の色は濃い。一方、運ばれていただけの勇者も溌剌とした気力は見えず、なんとも浮かない顔付きをしている。今、その身に鎧はない。土地柄、勇者だと知れては都合が悪いので、さほど人目を引かない羊飼いスタイルで送り出した。
 おかげで白い目で見られることはなかったが、あら? 魔王の従者さんかしら? という好意的ではあるが勇者としては屈辱極まりない扱いを駅員や乗客らから受け、勇者だと自己主張しようとする度に黄金の魔王にげんこつを食らったという。完全に保護者の仕事だ。無賃乗車についても魔王が保護者スキルを発揮し、勇者の頭を押さえつけながら丁寧に侘びて、なんとか穏便に済ませることが出来たらしい。事前に「ハイ」「ゴメンナサイ」「ニホンゴ、スコシダケ」しか喋るなと徹底されていたのも功を奏した。
 預けられていた聖剣も、必要な手続きを取った以外特に咎められることもなく無事手元に戻った。疲弊する道のりではあったとはいえ、万事解決である。
 安堵による緩みが垣間見えても良さそうなものだが、なぜか表情にかかった霧は晴れない。特に勇者は思いつめたようなほの暗さ身に纏っていた。
 ソファに浅く腰掛け、出されたカルピスに口をつけようともせず、勇者は吐露した。
「……聖剣の様子がおかしい」
 勇者は目線を落とした。その膝の上に、布にくるまれた長い得物が眠るように横たわっている。年頃の娘でもあるまいし、剣の様子がおかしいと言われたところでピンと来ない。
「おかしいって」
 何が、と私が身を乗り出そうとしたのを、背後からの声が遮る。
「光らないんだとよ」
 壁にもたれかかった黄金が、うっそりとした顔で告げた。
「……そうだ、沈黙したまま光らない。手にしても、以前のような覇気を剣から感じない」
 聖剣が勇者を選び、選ばれた勇者に魔王を封じる力を与える。握ればあらゆる祝福をもたらし、掲げれば闇を切り裂く光を生むとされる。だが、その奇跡とも言える力が今や細くしか感じられない、と勇者は深刻な面持ちで語った。
 俯き、大きくかぶりを振って。
「故障だ」
「ワオ」
 聖剣は故障しないなんて信じていた時期が私にもありました。
 勇者も大概だが聖剣にもがっかりだ。本当にがっかりだよ。
 そうそう不具合が起きないからこそ、聖剣であり伝説なのではないか。魔王の首を取る前に、故障や刃こぼれで何度もメンテナンスが必要になるならば、それはもはや聖剣ではない。聖剣に似た類似品と言っていいだろう。
「カオリ、真に受けるな。聖剣が故障など聞いたこともない」
 カルピスと氷が入ったグラスを手に、黒い魔王が参上した。カラカラカラカラと盛んにマドラーでかき混ぜながら台所からやってくる。魔王が言うには、氷が溶けるのを視野に入れて濃い目に注ぐのが、最後までおいしく味わうコツなのだそうだ。なるほどなるほど。少なくともこの状況でする話ではないことはわかる。
「俺が嘘を言っているとでも? ではなぜ剣は黙したままなのだ!」
 勇者が布を掴んで剥がすと、古びた、けれど息を呑むほど精巧な細工が施されたひと振りの剣が現れた。刃の厚みは薄く繊細で、眩しいほどの光を放つ甲冑に比べると輝きは鈍い。が、時を経た重みを感じさせる老練かつ厳かな佇まいが、例えようもない神聖さを醸し出していた。
 管轄内魔王としての本能だろうか、顕になった聖剣を前に、黒い魔王は眉をしかめる程度の反応に留まったが、黄金の方は忌まわしそうに顔を背けていた。自分の命を脅かす存在そのものなのだから無理もない。
「故障のようにはとても見えませんけど」
「見た目はな」
 勇者はおもむろに柄を握り、すっと天に捧ぐように頭上に掲げた。
「我に光あれ」
 唱えた勇者は、剣に何の反応もないことを確かめると、大きく息をついてそれを下ろした。
「通常こうすると刃全体が輝きを放つのだが、この通りだ。まるで手応えがない」
 本来ライトセーバーのように光る仕様であるらしい。いかにもファンタジックな様を拝んでみたかったので私は少し残念に思った。何せもう二度とお目にかかれないかも知れない、50年に一度の薬師如来坐像の御開帳といった代物である。故障という疑いをかけられて、急速に暴落しかけてはいるものの、その価値は計り知れない。つい、そわそわと好奇の目を向けてしまう。
「ちょっとだけ持ってみてもいいですか」
 そう口に出した途端、横槍が入った。
「カオリ、そのようないかがわしき得物に触れるなど」
「さっき私に妖刀預けた人が何を……」
 あれは由緒ある徳川のなんとか、と魔王はマドラーを手にぶつぶつ言っていたようだが、意外にも勇者が丁重に扱えといいながらあっさり聖剣を寄越したので、私は手のひらをTシャツで拭ってから恐る恐る握った。
「わっ軽い」
 驚くほど重みがない。最初に聞いた、勇者でなければ手にすることもできないという大前提が塵となって消えていくほどの軽さだ。おもちゃの剣を振るっているような気になってしまう。この扱いやすさは、喜ばしいというより不自然だ。聖剣としての稀少性を考えるなら、勇者以外がたやすく扱えるようでは塩梅が悪い。
 軽いとは言っても剣には違いない。そのまま振り回すわけにもいかないので、私は軽い気持ちで、それこそ特撮ヒーローを真似る子供のように、先ほどの勇者と同じく剣を上に掲げた。
「我に光あれー」
 突如、剣が唸るように震え、あたりに眩い光が満ちた。その雷のごとき閃光の中「目があー」と黄金の呻き声がした。眩しさに瞑った目を開くと、聖剣は神々しい姿を晒していた。光っている。見事に光り輝いている。夜であれば、さぞや多くの虫が寄ってくるであろう。その後、数十秒にわたり輝きを振りまいた聖剣は、やがて線香花火にも似た儚さをもって消えた。
 光とともに物音すら消えたのか、沈黙が訪れた。
 聖剣は私の手の内で再び眠りについている。私は先ほど光を放ったそれに釘づけになっていたのだが、魔王や勇者は違うものを注視していた。剣ではなく、それを手にしている者を。つまり私だ。刺さるほどの視線を全身に感じる。
「剣が……応えた……」
「カオリ……まさかそなた」
「いやいやいやないないそれはない」 
 呆然とした勇者と動揺に揺れる魔王を前に、私は顔だの手だの、とにかく振れるところは全て振って否定した。しかし二人の目の色はありありと語っている。お前が、お前が勇者なのかと。ちなみに黄金は一人、両目を押さえたままソファに隠れるようにうずくまっていた。さすがは伝説の剣、光るだけで管轄の魔王にダメージを加えるとは。
「家臣が主に牙を剥くとはな……身の内を食い破られる思いぞ」
 魔王は鋭い眼光で私を見据えながらも、自らの胸ぐらをかきむしり苦しげな息を吐いた。
「だから違うって」
「そなたが余の明智光秀となるか……敵は本能寺にあり……!」
「意外と日本史詳しいですね」
 一体どこでそういうのを覚えてくるんだ。
 感心するのも束の間、警戒も顕に後ずさる魔王の姿が目に入った。だからそうじゃなくて! と慌てて二歩ほど詰め寄る。参謀の地位に見合うだけの働きとは言い難いものの、それなりに忠誠を尽くしてきたというのに裏切りの汚名をきせられるとは心外だ。
「勇者になる気もないし、明智になる気もないですってほんとに」
「だが剣はそなたを選んだ」
 見下ろす魔王の目つきは疑わしい。腹立たしくなって、私はつい両手でローブを掴んだ。
「なんですかなんですか! 私よりどこの馬の骨ともつかない聖剣を信じるっていうんですか!」
「む。そういうわけではないが」
 魔王は決まり悪そうに目を眇めた。
「そもそも魔王は瞬時に勇者を見抜く的なこと言ってたくせに」 
 勇者を判断するは見た目ではなく血であると、キメ顔で語っていたのは他でもなく魔王自身だ。ローブごと揺すってそう詰ると、魔王は睫毛をはためかせて一度瞬きを見せた。それから感じ入ったように大きく一度頷いた。
「然り。そなたから勇者の波動は微塵も感じぬ」
「でしょう!? 勇者さんが言うようにきっと故障に違いないですよ、これ」
 ほら、と私はこともあろうに勢いにまかせて聖剣を押し付け、魔王は魔王で軽はずみにもそれを掴んだ。
「ほほう、羽の如き軽さ」
 魔王は感嘆し、無造作に得物を構えた。区画が違うせいだろうか、剣にも魔王にも互いを拒むような気配はない。おかげで聖剣を振るうと魔王という盛大な違和感がここに誕生した。
 感触を確かめるように二度ほど持ち替え、意匠や刃先などをしげしげと観察していた魔王は、誰に言われるでもなく自然な動作で剣を頭上にかざした。そしてさらりと例の語句を。
「我に光あれ」
 光った。聖剣は私の時と同様に一切躊躇なく強烈な輝きを放った。黒く禍々しい魔王の個性など一顧だにしない、文句なしの光量である。
「光った……」
「光りましたね……」
 聖なる光の安売りにリビングはざわついた。
 再び目を痛めつけられたらしき黄金は、お前らふざけんなと目を覆いながら憤っていたが、私たちはそれに構う余裕はなかった。
 いま、起こってはいけないことが起こってしまったのではないか。
 どう見ても人選ミスにも関わらず聖剣は応えてみせたのである。伝説の剣のご乱心。なんらかの影響で、勇者とそうでない者をもはや認識できなくなったとしか思えない。
 勇者もそう考えたようで、魔王から聖剣を奪い同じように掲げてみせた。が、さっきまでビカビカと景気よく輝いていた剣は嘘のように沈黙し、何の変化も見られない。おや? と私達が首をかしげている中、肩を落とした勇者が苦悶に満ちた声で呻いた。
「なぜだ……」
 勇者が手離した聖剣を拾い、念のためもう一度同じことを試してみる。私も魔王も、剣は光った。
「なぜだ……?」
 その時たまたま家にやってきた郵便配達(男性:働き盛り45才)の人にも持たせてみた。光った。
「なぜだ!!?」
 テーブルが勇者の拳に打たれ、カルピスの水面が揺れた。
 もはや、誰が持てば光るか、という問題ではない。誰であっても大体光る。おそらく三枝さんに持たせても光るだろうし、チワワの菊枝に持たせても光るかも知れない。ただひとり、勇者を除いて。
 誰彼構わず無差別に委ねているように見えて、その実、勇者だけを聖剣は弾いている。
 勇者の頭からつま先まで値踏みするように眺めた魔王は、ふんと鼻を鳴らした。
「見たところ、勇者の地位は剥奪されてはおらぬ」
 勇者は勇者のまま、けれど聖剣は応えない。故障かと思えば、勇者以外には大サービスで光り輝いて見せる。
 ああ、これは完全に。
「あてつけであろうな」
 これまで尊重され、神聖視され、数々の勇者とともに死線をくぐり抜けてきた伝説の聖剣様である。その辺の無機物とは違い、気位もプライドも高くそびえているだろう。物言わぬだけで、電車に置き去りにされたことを相当根に持っているのではないか。
 魔王は容赦ない口調で続けた。
「引き取りに来たからといって一時でもおざなりにされた禍根は残る。縁を切らぬまでも、何か報復をしてやらねば気がすまないといったところか」
 かろうじて関係は続いているものの、話しかけても返事が返らない程度にはこじれているわけだ。例えるならば溝の深くなったカップル。よほど彼氏、いや勇者が挽回しなければ破綻は近い。
「聖剣がへそを曲げるとは今期の勇者はハズレもいいところよな」
 ソファの影から顔を出した黄金の魔王が、ひとまたぎで背もたれを越え、投げ出すように体を預けた。どこから出したものか、その顔にはサングラスが装備されている。この短時間でライトセーバー対策を講じるとは伊達に在位が長くない。
「無駄にびかびか光らせやがって……人の目ェ潰す気か」 
「あ、サングラス似合いますよ」
「やかましいわ」
 憮然とした様子の黄金は卓の上のお茶請けに手を伸ばし、ばりばりと封を破いて食べ始めた。どこか投げやりにも見える粗雑な所作はやけくそといった風情が漂う。彼にとって今日は忘れがたい一日になることだろう。
 一方、柄が悪くなってしまった黄金の風体にも気に留めることなく、勇者は呆然と立ち尽くしている。常に剣と心を通わせる一心同体が正しい姿なのだとしたら、今の状態は片手落ちだ。己の半身に裏切られたに等しい。
「そんな……」
 声というよりも吐息に近い。勇者はぱくぱくと息苦しそうに口を幾度も開閉し、聖剣を、魔王を、そして私を見た。
「俺は……俺はどうしたらいいのだ」
 ふんぞり返っていたお山の大将が一転、捨てられた子犬の瞳で助けを求めている。母性を持つものなら、多少くすぐられてしまうかも知れない。実際、私の内に秘めている良心の最北端あたりが一瞬うずいてしまった。
 しかし、これは他でもない彼自身が招いてしまった悲劇なのである。散々黄金や現地の魔王に迷惑をかけてきたのだから、聖剣に関しては己で始末をつけるべきだろう。もういい大人なんだし。落ちぶれかけても勇者は勇者なのだし。
「聖剣に認めてもらえるよう、心を入れ替えて、真面目に一から頑張るしかないんじゃないですか」
 まさかこんな下手人を諭す刑事みたいな台詞を勇者に吐く日が来るなんて思いもしなかった。
 勇者は頼りなくしおれさせていた顔をさっと強ばらせた。空の色を含んだ目には、いくらかの期待と大いなる疑念が渦巻いている。
「心を入れ替えるとはいっても、今更別の人間にはなれん」
「まるっきり違う人格になれって言ってるわけじゃなくて、できることからコツコツとですよ。一日一善みたいな感じで」  
 腑に落ちないのか、勇者は眉間に皺を寄せて首を捻っている。
「例えば、ええと、後片付けをやるとか」
 私がテーブルに置かれたいくつものグラスを指差すと、明らかに不満そうな声が返ってきた。
「なんで勇者である俺が」
 物言いは実にふてぶてしい。私がもっと気が短いたちなら、この時点で頭突きくらいかましていることだろう。
「ほら! そういう態度がだめなんですよ! あとこんなこと言いたくないけど、いくら勇者だなんだっていってもいまは二軍みたいなもんじゃないですか」
 別に二軍が悪いとは言わないが。少なくとも一軍落ちという自覚は持っておいたほうがいい。
 勇者は何か言いたげに口元を歪めたあと、結局言葉を成すことなく渋々とトレイを手にして食器を下げた。シンクに置くだけで戻って来ようとしたので、グラスを洗うジェスチャーを示して追い返した。
 顔中に不本意と書かれた勇者は、のろのろと後始末を終え、私に疑いの眼を向けながら剣を手に取った。やる気のなさそうなかけ声とともに聖剣が掲げられる。
「あっ」
「ちょっと光った」
 言うなれば蛍の光。
 昼間では見逃してしまいそうなぼんやりとした明かりが刃先に灯った。閃光には程遠く、手応えとしては控えめではあるが、相手にもされていなかった先ほどを思えば進展と言える。剣をかざしたまま二度ほど瞬いた勇者は、思いつめたような面持ちでゆっくりと腕を下ろした。
「お前の言う通り、俺の心がけ次第ということか……」
「そうみたいですね……」
 仄かな光はすでにない。もと通り物言わぬ古びた姿となった剣を、勇者は疲弊したような面差しで眺めた。
 とりあえず、魔王を倒すのは後回しである。
 まず地道な善行を重ねて徳を重ね、聖剣との仲を修復するのが勇者に課せられた第一の試練だ。単騎で敵陣に乗り込むようなせっかちで派手を好む勇者にはさぞや我慢と忍耐を強いられる地味な作業であることだろう。しかしこれをおろそかにすれば、魔王を討つという本懐を遂げることもままならぬのだから、避けては通れない。
 うつむきがちに剣を見下ろしていた勇者はおもむろに天井を仰いだ。だらりと人形のようにぶらさがっている右手は緩やかに開き、聖剣が抜け落ちる。
「やってられるか!」
 絨毯が刀身を柔らかく受け止めたのと同時に、勇者が声を上げた。
「光明が見えたとはいえ、先が長すぎる! 魔王を倒す前にじじいになるぞ! だいたい勇者は悪に鉄槌を食らわす英雄であって、みみっちい奉仕なんぞするべき人間ではない!」
 ヒステリックな音が耳をつんざく。そのままわめきながらこちらに向かって踏み込んできたので、胸ぐらでも掴まれるかとつい身構えたが、勇者は眼前でその歩みを止めて椅子に腰を下ろし、髪を乱暴にかき混ぜ始めた。
「ちくしょう、なんでこんなことに」
 身から出た錆、の格言を謹んで彼に贈りたい。
 私はひとつ咳払いをして、絶望の淵に立つ勇者の注意を引いた。 
「今は混乱して考えがまとまらないでしょうし、その、帰ってからゆっくりと身の振り方をですね」
 頭かきむしっていた両手が止まる。勇者は抱えていた頭部をのっそりともたげ、ちょうど見下ろす格好になっていた私を薄暗い瞳で見上げた。
「……俺は……戻らんぞ」
 え、と思わず荒んだ横顔に目を投じる。彼の頭に添えられていた手が離れ、拳の形を作った。それはすぐに振り下ろされた。
「マリアンヌにも聖剣にも見限られた地に帰りたくなどない! 」
 拳が叩きつけたのは彼自身の膝だったが、私も一緒に殴られた思いがした。
 今、この男は、なんと言った?
「はあ? なに言って……」
 帰りたくない、などという台詞は可憐な女子の口からこぼれてこそ華があるというか魅惑的なワードとして成り立つのであって、アスファルトをもねじ切る脳筋の勇者(仮)から放たれたところで可愛くもなんともないのである。帰って欲しい。一刻も早く帰って欲しい。
 そう願っているのは私ばかりではなく、不本意ながら住居をたまり場にされている魔王も同様だ。切れ長の目が剣呑な光を帯びている。
「血迷ったか、はたまた記憶する脳すら持たぬか。ここは貴様にふさわしい地に非ずと余が再三申したはず」
「魔王の息がかかった忌々しい土地でも、恥をさらしに故郷に帰るよりましだ」
 居直った勇者が荒々しく鼻から息を吐くと、後ろから黄金が頭を小突いた。押し上げられたサングラスから赤い目が睨む。
「馬鹿言ってんじゃねえぞ。向こうじゃ勇者でも、ここじゃ何の後ろ盾もない甘ったれのクソガキ、いや、住所不定無職だ」
 住所不定無職。改めて言葉にすると凄みがある。
 しかし勇者は黄金の言葉に耳も貸さず、ソファに浅く腰掛けたまま自信ありげに言葉を発した。
「住むところに関しては、あてがある」
 心なしか、勇者の視線が魔王に向いている気がする。
 おいおいまさか……
 気色ばむ私達の様子を察してか、勇者はひらひらと手を振った。
「いや、魔王の家においてくれとまではいわん」
 さすがにそこまで図太くはないか。
 安堵したのも束の間、勇者の顔の向きが変わった。勢いよく目が合う。一瞬にして全身に嫌な予感が走った。
「村娘その一」
「いやです」
「まだ何も言ってないぞ」
 聞くまでもない。
「言っておきますけど村娘の家に勇者を養う余裕はありませんから」
 経済的余裕も心の余裕も、ついでに言うとスペースもない。
 彼がもう少し人間として厚みがあり、勇者の称号に恥じない立派な青年であれば、便宜を図ることを考えたかも知れないが、目の前の美丈夫の中身は直進ですべてをなぎ倒す野放しの猪である。なんの義理もない猪の面倒を請け負うなど、礼金を渡されてもまっぴら御免だ。例え札束で頬をぶたれたとしても、まあ、その、ちょっとばかり悩むけど、やっぱり御免だ。
 私が冷ややかな顔でぴしゃりと断ると、勇者は転がるように椅子から降り、すがりつく勢いで這いつくばってきた。
「俺とお前の仲ではないか!」
「なんの仲だよ! 悪いけど他人以下だよ! うちには入れん! 絶対に入れんぞ!」
 大黒柱である父の不在時は長女として私が瀬野家を守らねばならぬ。 
「置いてくれればなんでもする、家の仕事やそのほか、手足となって働きお前の助けとなろう」
「先に聖剣との関係修復を頑張るべきですよね」
 だいたい、と私は台所に目線を投じてから吐き捨てた。
「食器片付けるのも文句垂れるような人が役に立つとは到底思えません」
 我が家は勇者の更生施設ではないのである。暇そうに見えるかも知れないが、私も短い青春の真っ只中の色々と忙しい身なので、そうそう人の脇腹ばかり突いてられない。
 だが、信念という名の思い込みの強さで勇者となった男はあきらめが悪い。靴裏に張り付くガムより粘り強い特性を発揮し、いくら拒絶しようとも執念深く足首を掴んで離そうとしなかった。これほどめざましいガッツを秘めているなら、別れ間際のみっともない彼氏みたいな真似ではなく勇者として正しい方向に使いたまえよ。
 歯を食いしばる顔つきは鬼気迫るものがあり、その表情に恐れをなした私は蹴っ飛ばすようにして振り払った。一旦尻餅をついた勇者は這うように引き返して。
「頼むこの通り! 一生に一度のお願いだ!」
「出たー! 噂の一生に一度! 重みゼロ!」
 やはり思った通り安い。そして考えが甘い。一度限り有効のクーポンが何度でも使えると思うなかれ。
 諦めの悪い勇者が私の右足をめがけて、尚も手を伸ばそうとしたその時だ。
「控えよ」
 ずしりとした緞帳にも似た声がそれを制した。終劇を知らせるように、マントという名の暗幕を引きずり、魔王は勇者の前を横切ってゆく。
「貴様は知らぬようであるから、この際教えてやろう。一度しか言わぬゆえ、その足りぬ頭と塵のつまった耳をしかと開いておけ」
 勇者の前を通り過ぎたところで足を止めた魔王はゆっくりと彼に向き直った。放たれる厳粛な空気に、勇者は戸惑いながらも神妙な顔をつくった。 
「勇者はこの地に根を下ろすを許されぬ。無論、我々魔王ゆかりの地であるゆえではあるが、それだけではない」
 私の視界には肩が見えるのみで、魔王の顔色まではうかがえない。夜を溶かしたような低い声だけが耳に届く。
「この土地に長らく住み着き、守護するもの……畏怖と尊厳を兼ね備えた、もはやこの土地の意思そのものと言っても良いかもしれぬ……その神にも似た存在が、集落全体を掌握しておるのだ」
 少しの間を置いて、魔王は言った。

「その名を……這いずりさんと呼ぶ」

「ブッホ」
 むせた。
「そうだな、カオリ」
 間髪入れずに魔王が私を振り返る。それは悪ふざけとはまるで無縁な真面目な顔だった。この世の底を思わせる深い目の色が、私に向かって静かに雄弁に語りかけている。
「な、なんだその這いずりさんというのは」
 たじろいだ勇者の顔には、困惑と動揺がありありと浮かんでいる。それを見て、私は魔王の言わんとしていることを察した。むせている場合ではない。乱れた呼吸を嚥下して、短く息を吸い込んだ。
「……我々は這いずりさんに監視されています」
 我ながら絶妙に不気味な声が出た。
「這いずりさんには逆らうべからず、這いずりさんには何人も抗う術持たず……贄として目をつけられたが最期、どこまでも追い詰められ、最後には世の果まで引きずり込まれるのです」
 いつか祖母が私を脅かしつけたのと同様、吐息はおどろおどろしく、顔面には不吉をのせて、私は死神のように勇者に迫った。
「何を、ば、馬鹿なことを」
 対峙する声音が震え、怯えに染まってゆくのを確認して、私は一歩また勇者に近づく。
「いいですか、這いずりさんは水田から現れ、どろどろに溶けた体を引きずって迎えに来るんです。道連れにする生贄を求めてずるりずるりと。そして這いずりさんが好んで引きずり込む生贄は、」
 一層低い声で囁いた。
「夜寝ない子と、畑を荒らす勇者です」
 眼前の男が顔色を失くした。
「好物はセミと勇者の目玉ぞ」
 魔王による追撃の一言は、完全に悪ノリといって差し支えなかろう。秘められていた邪悪性がようやくせこい形で牙を剥いたといったところか。私はそれを耳にしながら、頭の片隅でぼんやりと思っていた。

 ああ、大人になってしまった。
  
 這いずりさんが身内らの作り話であると気づいた時分、子供のピュアさにつけこんでひどい、大人って汚いよ、と怒りで拳をかためたというのに、気がつけば自分もそっくり同じ、汚いとされるその手段を用いている。騙される側から騙す側へ、戒められる立場から戒める立場へ。知らず悪事に加担したような、成長の引き替えに純粋さを喪失したような、物寂しい心地である。人の業というものを身に刻みながら、今日私はひとつ大人の階段をのぼった。

 魔王にたぶらかされた勇者は怯えた表情のまま凍りついている。
 彼は聖剣に選ばれ、神殿が屈するほど思い込みの強さを誇るが、嘘を見破る才は絶望的だ。その特異とも言える、信じたものを疑わない一途かつ頑なな気質は、恐れを植え付けるのに向いている。
 私が幼少期の自分を裏切ってまで与えた畏怖と不安を、水分を含む高野豆腐のように、しっかりと身に吸い上げたことだろう。すでに頭の中では這いずりさんでいっぱいに違いない。想像力の限りを尽くした凄まじい姿の這いずりさんが跳梁跋扈しているに違いない。いつかの私がそうだったように。
 嘘っぱちだと見抜いているはずの黄金は、途中一度も口を挟むことはなかった。ただわざとらしく整えられた神妙さで私たちの作り話に頷いていた。それがいよいよ場に説得力を持たせ、覆いかぶさるように沈黙が重たく垂れこめてゆくのを手伝った。

 魔王家のリビングの窓は道路に面しており、私の位置からは庭先の様子がよく見える。
 その風景に見覚えのある車が一台滑り込み、魔王の家の前に停車した。ほどなく、蝉の声とは種類の違う妙な音が混じって聞こえてきた。
 ずるり……
 ずるり……
 重い何かを引きずるような地面の摩擦音。
 外の様子を目にしていた私と魔王は、その正体について当然承知していたが、窓に背を向けている勇者の耳にはもっと別の想像をかきたてる物音として響いただろう。例えば、頭の中を支配しているおぞましい何かが地を這う音であるとか。
 物音は緩慢かつ確実に接近し、やがて玄関付近でぱたりとやんだ。乾ききった唇を開いた勇者が短く息を飲むのも待たず、インターホンが何者かの来訪を告げた。

 そこからの展開は早かった。
 
 まずインターホンの音にひっくり返った勇者がそのままゴムマリのように窓まで転がり、逃亡を図って閉まっているガラス窓に顔面から激突した。しかし混乱の勢い衰えず、鼻血を出しながらテーブルの下にもぐったりカーテンに巻きついて身を隠したりと大の大人としては醜態と言えるレベルの取り乱し方を見せ、黄金のマントに潜り込もうとまでしていた。
 そうこうしている間にインターホンは再び鳴り、飛び上がった勇者が「帰る帰るマジで帰る」と叫びながらまたも窓に体当たりし始めたので、この機を逃すまいと「早く帰らねば目玉をしゃぶられるぞ」などと一層の脅し文句で緊迫感をデコレーションしつつ、私達は台所の奥にある裏口へと勇者を手引きした。裏口を開けるが早いか、勇者は飛び出した。先ほどの帰らない宣言がゆめまぼろしに思えるほどのスピードで駆けていった。そのあとを遅れて黄金も追っていったが、裏口付近で「この借りはいつか」とか「通販頼むな」とか魔王同士手短に挨拶を済ませる様は、発車間近の乗客と見送る側といった駅のホームでのやり取りに似て、威厳も何もあったものではなく、妙に気ぜわしかった。そして別れもそこそこに魔王も消えていった。時間で言えば、一分にも満たない出来事だった。

 客は去った。町の平和を脅かし、猛威を振るった台風は去った。
 取り戻した日常を祝福するように三度目のインターホンが鳴る。玄関ドアの向こうには、精米された米袋を引きずった母の姿があることだろう。
 魔王はゆっくりと裏口の扉を閉め、厳重に施錠した。
 どちらともなく目を合わせ、互いの健闘を称えるように無言で頷きあった私たちは、母を出迎えるべく玄関へと向かった。足取りは長い戦を終えた老兵のそれであった。
 老兵に戦う気力はもう残っていない。

 それゆえ、リビングの一角に残された勇者の甲冑一式については見なかったことにした。


    
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