14話目 / 後始末の巻 |
夏場は冷凍庫の陣地争いが最も白熱する季節である。 アイスクリームや保冷剤等、この時期欠かせないアイテムが幅を利かせるのはもちろん、計画性なく買い込まれた冷蔵食品が傷みやすいからという理由で移民のごとく大量になだれ込み、領土を圧迫するせいだ。もとより余裕のない庫内はいよいよ狭苦しさにあえぐことになる。 それでも冷凍庫は昨日まで、私と祖母による、並べて重ねて無理矢理に押し込むテクニックで、なんとか凌いでいた。一度動かせば二度と再現できないパズルのような危うい完成度で成り立っていた。 だが本日、そのパズルは無邪気にも冷凍うどんを持ち込むという母の蛮行を前にもろくも崩れ去った。すでに満員御礼で、タタミイワシですら滑り込む余地などないのである。入るわけがない。入るわけがない。なんでどうして五食入り。 いくら手を尽くそうとも、限界というものがある。 結果としてアイスキャンデー二本が弾き出された。 私は途方に暮れた。 まさかこうなるとは思ってもいなかったので、先ほど食後のデザートとしてカップのアイスを平らげたばかりだ。いくら暑くても、いかにも冷え冷えとしたそれを二ついっぺんに腹に入れるのは抵抗がある。とはいえ、このまま見殺しにするのも忍びない。 行き場をなくしたアイスを両手にぶらさげて彷徨い歩いていると、外の様子が目に留まった。季節感を無視した黒い塊が蠢いているのが窓から見える。 私はアイスを携えて慌ただしく玄関を出た。 魔王は庭に君臨し、悪い魔法でも施すような面持ちで水を撒いていた。声をかけると、持ったホースごと振り向いたので危うく水責めの洗礼を受けるところだった。 「ちょっ、水とめてください」 体をひねりながら訴えると、魔王は、はいはい、とでもいうような薄いリアクションを示し、特に急ぐでもなく水を止めた。急いでいるのは私の方だ。 「魔王さんアイス食べませんか食べましょう」 返事を待たず、押し付けるにも似た強引さで魔王にアイスを渡した。熱気にあてられ、早くも溶け始めているのが袋の上からもわかる。魔王はそれを指でつまみあげ、しげしげとパッケージを眺めた。 「氷菓子か」 「三時のおやつです」 「ふん。そなたにしては気が利いている」 魔王の肉体は暑さ寒さを受け付けないと聞いた。その割りに麦茶や風鈴といった風物詩は好んで取り入れているように見える。気温の移り変わりに左右されない分、視覚や味覚で四季を感じることに貪欲なのかも知れない。 盛りの時間を過ぎたとはいえ、暑さは依然として容赦がない。悠長にしていたら、あっと言う間に溶け落ちてしまう。かろうじて見つけた日陰に腰を下ろした私たちは、その場でアイスの封を切って食べ始めた。 表面こそしんなりとしていたが、芯の方には十分な歯応えが残っている。柔らかくなってしまっては本来の味わいを楽しめない。思い切りソーダ味に歯を立てる。そのままガリゴリと噛み砕くと、頭痛を招きそうな清涼感が突き抜けていった。 夏だなあ。 こうして日差しから逃げつつ涼を堪能していると、暦の上ではすでに晩夏とは信じがたい。次の季節の気配はまだ遠く、夏の隆盛はまだまだ続くように思える。 修行僧のように無心でかぶりついたせいか、私のアイスはあっと言う間に半分になった。対して魔王の方はというと、減ってはいるもののあまり進んではいない様子だ。溶け出した雫が滴り落ちるのも構わず、親の仇のごとき眼差しで件の品を見つめている。魔王の冷凍庫にアイスがあったのを覚えていたので当然食べるだろうと決め付けていたのたが、思い返してみれば入っていたのはバニラなどのクリームタイプのものばかりだったような気がする。もしかしてこの類の食感は不得手だったのだろうか。 「口に合いませんでしたか」 「そうではない」 眉間に皺を刻んだ横顔が青々とした色の氷菓を食む。 「噛みしめるたび亡者の断末魔が響くのだ」 歯を立てるやいなや、魔王は忌々しげに手のひらを頬に当てた。表情としては乏しいが、痛みに耐えているのだと仕草でわかる。 「あ、知ってますそれ。知覚過敏ていうんですよ」 「……チカク、カビーン……?」 「なんで急に日本語が不自由に」 今までの流暢な喋りはどこに行ったのか。 「なんか冷たいものがしみるっていう歯茎の病気……とかなんとか」 曖昧に答えながらアイスキャンデーに噛み付いた。砕かれた氷の粒が口の中に凍てついた冬を運ぶ。最後の一口を放り込んで隣を伺うと、まだ魔王は半分以上残っているアイスを一口ずつ慎重に食べ進めていた。ゆっくりと咀嚼してから、怪訝そうに私を睨めつける。 「脆弱なる人の子の病など患うわけがなかろう」 「なかろうも何も現にキーンと来ちゃってるじゃないですか」 魔王は何か言いかけたようだが、その拍子に奥歯で噛んでしまったらしく口を閉ざした。しばし黙り込んだのち、重い声を吐き出す。 「……人の病に苛まれるはずもないが、厄を被れば障りが出るのは魔の血筋とて同じこと。翼が摩耗する者もあれば、その肌に煩いがあらわれる者もある。余の場合はそれがたまたま歯であったに過ぎぬ」 見た目ではわからないが、どうやら魔王は不調のようだ。 「歯、弱いんですか」 「弱いというほどではない」 「あ、だから八重歯が」 「黙らぬか。これは牙である」 「ふご」 八重歯呼びは禁句であるらしい。すかさず飛んできた手のひらに口止めを強いられてしまった。私としては八重歯の通称は親しみやすくてなかなか可愛らしいと思う。しかしそんなことを言った日には発言どころか息の根も止められかねないので大人しく従った。 魔王の歯に痛恨の一撃を食らわせ続けていたアイスはじきになくなった。溶けたのではなく全部魔王の腹におさまった。 食べている間ずっと地雷を探るような緊張感をみなぎらせていたので、そんな無理しなくてもと口を挟んだのだが、天地までも屠らんとする魔の王が氷菓ごとき、などと壮大な言を吐きながら懸命に噛み砕いていた。私はその鬼気迫る形相にやや恐れをなしながらも、悪いことをしたなと思った。 「馳走になった」 「いえ」 むしろダメージを与えるだけの行為になってしまったことを心からお詫びいたします。 「礼をせねばならぬな」 「そんな大げさな、たかがアイスの一本や二本」 そもそも処理に困って押し付けたに過ぎないのである。しかも痛めつけるだけの結果となった今、後ろめたさが加速する。だから一応、お構いなく、という意思は伝えた。しかし時々魔王は人の話をすまし顔でスルーするところがあり、今回も例にもれずスルーされたようだった。 「そなたに褒美をとらせよう」 「褒美!?」 アイスの見返りに出る話じゃない。目を剥く私を見下ろしながら、魔王は大仰にローブを揺らして波を立てた。 「先日の勤めに見合う褒章もまだであろう」 「先日……ああ、あの勇者の」 思わず目が遠くなる。この夏一番の、心のアルバムに貼りたくない思い出である。あれは大変だった。本当に大変だった。あのトラブルメーカーを追い返す為にかなり頑張ったといえよう。しかし最も頑張っていたのは、黄金の魔王だった気がする。 「よくぞ片腕としての役を果たした。今こそ働きにふさわしい代物を与えん」 「な、何をいただけるんで」 思わず喉を鳴らす。期待もないわけではないが、相手が相手なだけに不安も大きい。 「そうそう手に入らぬ、世にも珍重な品ぞ」 「そんな珍しいものを? いいんですか?」 「かまわぬ。余が持つべき品ではない」 一瞬魔王の表情に陰りが見えた。どこか倦んだような力のない眼差し。しかしそれはすぐに失せ、再びいつもの冷然とした容貌に戻る。 私はその態度に引っ掛かりを覚えたが、魔王はそれを覆い隠すかのように距離を詰めて迫った。 「カオリ、いつかそなたは無用心にも軽装で夜道を闊歩していたな」 「え? はい」 「あの時申しておっただろう」 「はあ」 「鎧の類は所持しておらぬと」 私は脱兎の如くに逃げ出した。閃きが逃げろと私に告げたからだ。 悪い予感がする嫌な予感がする! 魔王が寄越そうとしているのは多分、きっと、 「何故逃げる」 「ギャー!」 閉めた扉にもたれかかる暇もなく低い声が襲いかかる。施錠は間に合わず、追いかけてきた魔王にドアを開けられてしまったが、寸前で施したドアチェーンに救われた。魔王直伝のドアチェーン戦法が魔王自身を阻むるとはなんとも皮肉ではある。 「カオリ」 「ひい」 隙間から覗く瞳が禍々しく光る。 「戒めを解け」 「い、いやです」 「楯突くつもりか、面白い。己の身が可愛くないと見える」 邪悪に口元を歪ませ、開けろ開けろと魔王はわずか開いたドアをガタガタと揺らした。半分だけ晒された闇に染まる凶相も相まって、身の毛もよだつ光景である。 私は扉を押さえながら、音楽の授業で繰り返し聴かされたシューベルトの『魔王』を思い出していた。 お父さんお父さん! 魔王がいるよ! 僕をつかんでつれていくよ! 絶望的な旋律を盛り上げんばかりにドアの軋む音がする。ここにも魔王がいるよ。私をつかもうとしてくるよ。あまつさえドアを破ろうとしているよ。 曲中の坊やもさぞや恐ろしかったことだろう。こんな不吉な魔の化身に背後をぴったりとマークされれば怯え震えるのも無理はない。 「このような板切れ、吹き飛ばすは造作もないこと」 脅し文句とはいえぎょっとする。家が半壊しかねない。私は扉にかけた手に力を込めた。 「そんな手荒な真似したらあっと言う間に知れ渡りますよ。村八分になりたいんですか」 魔王がわずか怯んだ。機を逃すまいとしてすかさず畳み掛ける。 「田舎の噂はそりゃもう早いんです。速達どころじゃない」 ましてや悪い噂ならば音速を超える。 「カオリそなた、主を脅迫するつもりか」 「どっちが先に脅してきたと思って、」 「見苦しい。先だ後だと論じるは無駄の極みよ」 勝手な人だな! 「そもそもこのような暴挙に出たのか解せぬ」 切れ長の目が眇められると同時に、扉越しにため息が吐かれた。 「何を思い違いをして吠え騒いでいるか知らぬが、早合点も甚だしい。わざわざ臣下に害をなす主人がどこにあろうか」 呆れ果てた声だがそこに偽りは感じられない。私はおそるおそる隙間を覗き込んで魔王の顔色を伺った。 「厄介事、押し付けようとしてません?」 たわけたことを、と応じた魔王はそのまま続けた。 「甲冑をそなたに贈ろうというだけだ」 「やっぱりね!!」 なんら思い違いでも早合点でもない。そう来るだろうと察したからこそ逃げたのであり、結果として私の第六感は正しかったのである。 「甲冑ってあれですよね絶対、ていうかあれ以外にないですよね?」 然様である、とばかりに魔王は悪びれもせずに頷いた。 「つつしんでお断りいたします」 「なにゆえ拒む」 「逆になんで拒まないと思うんですか」 魔王が熱心に私に譲り渡そうとしているのは、言うまでもなく先日勇者が置き去りにしていった甲冑一式である。それなりに貴重ではあるものの、その価値は唯一無二の聖剣には遠く及ばず、あれから特に勇者側から連絡が来るわけでも引き取り手が現れるわけでもなく、そのままリビングに放置されているらしい。 魔王が暮らす邸宅は外装内装ともに平均的な日本のお宅といった風情の為、甲冑がもたらす違和感たるや相当なものだろう。場違いな個性で楚々とした他インテリアを圧倒しているに違いない。しかしそれは我が家に持ち込まれたとしても同じことである。いらない。 「甲冑なんてもらっても困ります」 「よいかカオリ、年頃の娘を狙う不届き者はいつ現れるか知れぬ。出歩く際に欠かさず着用すれば、そのような輩から少しは身を守れよう」 田舎道をガッシャガッシャと音を立てて徘徊する甲冑の姿を脳裏に思い描く。うん。うんうん。身を守る以前に私が不届きな輩として通報されるなこれは。 「いやいや」 大きく頭を振る。 「無理、絶対無理。だいたいあんなでかい置物受け入れるだけの場所ありません! そっちの方が断然スペースに余裕あるじゃないですか。魔王さん一人住まいだし」 魔王宅と我が家は広さだけでいえばさしたる差はないが、家族の数が違う。暮らしている人が多ければ比例して物は増え、しかも処分もままならず、よくわからないものがよくわからないまま自由に溢れている。おかげで父の書斎はすでに物置だ。甲冑など持ち込んでる場合ではない。 「余をなんと心得るか。闇を統べる魔王であるぞ」 チェーン越しに見える冷徹な美貌がぐっと近づいた。 「その中枢である住処に、どうして忌まわしき勇者の装備品なぞ飾れようか」 管轄違いとはいえ勇者と魔王。言われてみれば確かに一番あるべき場所ではない。 「やっぱり勇者にまつわるものは置いてあるだけで何かダメージが?」 「あのような抜け殻などに脅かされる何ものもないが、目障りでかなわぬ」 実害はないけど視覚的になんかやだ、というわけだ。 自宅の居間にある以上、普通に過ごしていればどうしても目に触れる。微々たる不快感でも、積み重なればストレスになるだろう。もしかしなくても魔王の不調の原因はこれか。 受け持ちではない勇者に翻弄される魔王を気の毒と思いはすれども、冷麦とはわけが違う。軽い気持ちで引き取りましょうとは安請け合いはできない。 来れば厄介、去っても迷惑。勇者よ、お前はどこまで面倒な奴なんだ。 「いっそ捨ててしまえば……」 ついそんなことを口走った私に、魔王の面持ちは厳しい。 「そなた何も知らぬのか」 ならば教えてやろう。 薄い唇が厳かに開いてゆく。 「粗大な屑物の廃棄……無償に非ず」 そう告げた魔王の顔があまりに神妙だったので、私もつられて「ほほう……」と同等の重々しさで応えた。天地を屠ると豪語していた割にはスケールが小さいような気はしないでもない。が、それよりも魔王の成長に感慨深さを覚えてしまう。段ボールの分別でつまづいていたというのに、よくぞ粗大ごみの処分まで到達したものよ。 「それゆえ、カオリ」 「NO」 気を緩めた瞬間に話題の矛先が変わった。続くであろう言葉を察して即座に遮断する。うちはだめだめ無理無理と魔王の顔をまっすぐ見ながら何度も首を横に振った。 「勇者の祟りとかあったらやですもん」 「あれにそのような力などあるものか。夜更けに時折不審な動きを見せる程度よ」 余計いらねえ! いよいよ引き取るわけにはいかなくなった。 「どこからどう見ても邪魔ですねえ」 甲冑はあの日と変わらず部屋の隅に脱ぎ散らかれ放置されていた。艶やかな細工も勇壮な意匠も厄介者となった今、どこか虚しい。私の隣に立ち、同様に甲冑を見下ろしていた魔王は、いっそ獄炎にくべてやろうかと恨みがましく呟いていた。 あれから私は頑なに断り続け、折れる気配がないと悟った魔王もやがて諦めた。それまでがゴリ押しとも言える強引さだったので「断念しよう」という素直な魔王の言葉を信じきれず、本当に? 本当に? 隙を見せた途端甲冑が運ばれてきたりしない? などと何度も聞き返しては念を押しに押したため、しつこいと怒られた。 めでたくも魔王による押し売り計画は破綻したわけだが、話はそこで終わらなかった。私が断ったせいで宙に浮いた甲冑の処遇についてである。 魔王にも我慢の限界というものがあり、うまく押し付けられなかったとしても、これ以上家に置く気はなかったらしい。私の立場は一応、参謀ということになっている。特に給金は頂いていなくともその肩書きはしっかりと生きており、引き取らないのであれば代わりに手立てを考えろ、という主のお触れに従って私は魔王城に舞い戻ることとなった。 「そなた、誰ぞ心当たりはないか」 銀色の表面をカツカツと爪で嬲りながら、魔王は白い面をこちらに向けた。 「なにがです」 「卑しくも鎧兜の蒐集に明け暮れているような輩よ」 そんな都合の良い知り合いはいない。 心当たりはないことを告げると、魔王は鼻白んだ様子で再び甲冑に向き合った。 改めて室内を見回すと、本当に甲冑だけが異物としてくっきりと浮いている。初っ端から世界観を狂わせている家主については言いだしたらキリがないのでこの際目をつぶるとして、落ち着いた佇まいの空間に西洋の鎧一式が死骸のように捨て置かれている様は、やはり唐突で、刺身にデミグラスソースを垂らしたような不自然さである。和洋折衷の衝突事故だ。 二人並んで甲冑を睨んでいても埒が明かない。魔王から一歩下がってなんとはなしに目線を泳がせていると、視界の隅に見覚えのあるものを見つけた。棚の上に無造作に置かれている。回覧板だ。確か一昨日届けたはず、と思い起こしながら手に取った。 「まだ回してないんですね」 失念していたのか、振り返った魔王は回覧板を目にしてひとつ瞬きを見せた。陶芸教室だのゆるキャラ募集だの書かれたぺらぺらの用紙をめくってから閉じる。 「まあ特に大したこと書いてないから大丈夫か」 今回に限らず大したことが書いてあったたためしはない。回覧板を魔王の手に渡す。 「伝達を滞らせるとは不覚。のちに必ずや、」 言いかけて、何か気がついたように魔王は途中で言葉を切った。 「魔王さん?」 私の呼びかけに応えてかそれとも己の閃きに感じ入ってか、魔王は二度頷いた。一度目は短く、二度目はゆっくりと。その後に発せられた声は確信に満ちていた。 「カオリ、サエグサだ」 「は?」 「サエグサの老いぼれに委ねる」 「三枝さん? な、なんで?」 魔王は冷淡な眼のまま口角を少し持ち上げるという悪役を極めたような顔つきで言い放った。 「あの死にぞこないが申しておったではないか、困ったことがあれば何でも言えと。その誓い、今こそ果たしてもらおうぞ」 魔王の前で下手なことを言ってはならないと心に刻んだ瞬間である。言ったが最後、誓いや契約といったヘヴィーさを振りかざしてこちらを追い詰めてくるであろう。 完全にその気になってしまった八重歯の王を止める術はない。というか、先ほど手一杯抵抗したので、すでに私の気力は尽きていたのだ。決して、標的が三枝家に移ったからといって安堵して手を抜いているわけではない。ただ、三枝さんのお宅は魔王や我が家よりも敷地は広いし土地は余っているし、まあ良いではないか良いではないかという考えがよぎったのは事実である。 行き先も定まり、さっさと出向くかと思いきや、魔王は甲冑の前に再び陣取り、考え込むような仕草を見せた。行かないんですか、と私が後ろから覗き込むと、魔王は振り向くことなく、むう、と唸るような返事を返した。 「そなたなら如何にして持ち運ぶ」 魔王の指は鈍い銀色の塊にまっすぐ向けられていた。 「え、いきなり持っていくんですか」 交渉成立する前に? 「一度応じたとしても人は移り気なもの。いつ反故にすると言い出すか知れぬ。気が変わらぬ内に置いて帰るが上策よ」 「悪徳業者みたいですね」 すでに瀬野家で失敗している分、妙に慎重になっている。 やり口はともかく、まず甲冑を確認してもらうことについては賛成だ。引き取ってもらうならば、言葉で説明するよりも実物を見せるのが最も手っ取り早い。 足元に転がっている腕の装甲を、私は戯れに持ち上げた。ずしりとした重量感がある。 「うお、結構重いですよ」 魔王の手が横から伸びて、あっさりと奪っていった。 「貧弱な。この程度重い内に入らぬ」 私が両手で抱えていたそれを、魔王は紙風船でも扱うように片手で弄ぶ。 「それよりもこの形状よ」 魔王の顎で示した先には、持ち主に見放され統率失った頭部や脚の部品が床に散らばっている。ばらばらに壊れた超合金のようだ。身を守る防具にふさわしく、いずれもどっしりと重厚でそれなりの大きさを誇る。ひとつにまとめようにも甲冑がおさまるサイズの紙袋などあるはずもなく、持ち運びには難儀しそうだ。 「着てしまえば運ぶ手間も省けますけどね」 深く考えることなく私は見たままの感想を述べた。 「……然り」 思いがけず同意が返ってくる。意外に感じて見上げると、魔王もまた視線を私に寄越した。 「サエグサ、邪魔するぞ」 この炎天下の中、三枝さんは庭の草むしりに精を出していた。私たちの姿に気づくと、麦わら帽子を持ち上げて笑った。 「おう誰かと思えば」 汚れた軍手を脱ぎながら三枝さんは来客を気さくに出迎える。 「暑かったろ、なんか飲んでけ。兄ちゃんと、えーと…………?」 「夏織です」 三枝さんは面食らったように目を丸くした。 無理もない。この姿を見て看破できる方が奇跡といえよう。 今の私はほぼ勇者である。誰の目から見ても西洋の騎士である。ふらりと現れた頑強な鎧兜である。吾輩は甲冑である。もらい手はまだない。 軽い気持ちで発した甲冑を着るという案が思いがけず採用されたものの、着用するのは魔王ではなかった。魔王は甲冑のパーツを拾い集めたかと思うと、子供に着替えをさせる母のごとき手早さでそれを私に着せていったのだ。抵抗の暇も余裕もなかった。何しろ重い。過度な動きは封じられる。 何故私が犠牲になったのかというと「余では身の丈が釣り合わぬ」だそうである。勇者と魔王の体格の差を思い返せば尤もな主張ではあるが、勇者と私にもまた体格の差は存在する。なんとか着たものの、いわゆる服に着られている格好になった。それでも魔王は満足げで、「なかなか似合うておるではないか」などと珍しくもお褒めの言葉まで飛び出したのだが、一切の私の外見的要素が隠れている状態で評価されても喜ぶに喜べず、不格好な置物として佇むしかなかった。 「夏織ちゃんかァ……いやたまげた」 三枝さんはいささか呆然とした様子で、首にかけたタオルで汗を拭った。 「ちょっと見ない間に女の子は変わっちまうもんだな」 「三枝さんあのね」 「いやいや俺らみたいな年寄りには、最近の若い奴のファッションてやつはわかんねェからよ」 「とりあえず話聞いて」 これが私服だと思われたら死ぬ。 「サエグサよ、この代物をどう見る」 前置きなしに、魔王が私の頭部をたんたんと叩きながら三枝さんに切り込んだ。会話に加わるのが遅れたのは、庭に犬の姿がないか確認していたせいである。 唐突な問いに三枝さんは一瞬きょとんとして、それから首をかしげた。 「どうも何も。立派な鎧兜だとしか思わねえよ」 「立派だと、そう思うか」 繰り返し問われ、三枝さんは訝しげな顔をしながらも、ああ、と頷いた。 世間話としては不自然である。企みに向けて魔王が助走段階に入ったのは明らかだが、私は重さと暑さでかなり弱っており、手も足も口も出す気にはならなかった。むしろ一秒でも早く脱ぎ捨てたかったので、三枝さんが犠牲になる瞬間を待ち望んでいたと言ってもいい。 そうとも知らず、三枝さんは私が身にまとっている甲冑の細工に目を留め、細けえ仕事してんなあ等とのんきに褒め称えていた。蜘蛛の糸に獲物が吸い寄せられてゆく。もうひと押しでその羽を死の糸が絡め取ることだろう。三枝さんすまない。許せ。 身をかがめて防具の隅々まで一通り眺めていた三枝さんは、やがて晴れがましく顔を上げた。 「でも欲しいかって言われたらいらねえな」 蜘蛛の巣、一刀両断。 予期せぬ強烈なカウンターアタックに、私も魔王も二の句が告げない。まさか心を読まれてしまったのだろうか。今日ほどポーカーフェイスに自信がある日はなかったのに。 ならば貴様にくれてやろう、と言い放つ機会を伺っていただろう魔王など、追っていたフリスビーがいきなり消えた犬みたいな顔をしている。 「な、なんで欲しくないの? 欲しいよね? ちょっとくらいは興味あるよね?」 すがりつく勢いで(実際は微動だにしてないわけだが)そう呼びかけると、私たちの期待をばっさり斬った三枝さんは、同じ調子でばっさりと言った。 「いやいらね。役に立たねえし」 それによ、と親指で家の方を差した。 「うちの犬っこが怖がっちまうだろ」 横の魔王がそれを聞いて小さく身じろぎした。効いている。かなり効いている。無意識に違いないが、三枝さんは魔王を黙らせるに最も強力な一打を放った。 この翁……できる! 敵の攻め手をかわすのみならず先んじて封じるとは。かつてこのあたり一帯で浮名を流し、夜の三冠王の異名をとった男はさすが一味違う。 もはやねじ込む術はなし。潔く負けを認めよう。そもそも大将である魔王が犬の一言に戦意を喪失した時点で、一介の兵卒が奮起する何者もない。それはいいとして、またしても甲冑が行き場をなくした今、私はどうしたらいいのだろうか。この甲冑の中の人という立ち位置からいつ抜け出せるのだろうか。せっかくだから着て帰れば、なんて流れになろうものなら、私は魔王の家の前にまきびしを撒く。 「なんだ、なんか困ってんのか?」 私たちの様子に何か感じるものがあったのか、三枝さんは顎をかきながらそう言った。 困っている、困っていますとも。思いを込めて頷いたが兜のせいでおぼつかない動きになり、目隠しがカチャカチャ鳴るだけに留まった。 「へえ、これが勇者のねえ」 三枝さんは好奇心を交えた眼差しで、まじまじと甲冑(私)を眺めた。夕方に近づき、いくらか日が陰ってきた。帽子を脱いだ三枝さんは、よっこらしょといいながらブロックに腰掛けた。 「大変だったなあ。勇者っつったら兄ちゃんの敵(かたき)だろ。言ってくれりゃあ除雪車で突っ込むなりして加勢したのによ」 事情を知っても三枝さんはあまり驚いた様子は見せなかった。むしろ黄金の魔王と顔を合わせていることもあり、もしかしてあの時か、とすぐに合点がいく察しの良さである。 少し垂れた目で魔王を見上げてから、ふうん、と三枝さんは腑に落ちた顔で頷いた。 「なるほどな、それで厄介払いしたいわけか」 「一刻も早く手放したいが叶わず」 「出処が勇者の持ち物じゃあ、古物商に持ち込むわけにはいかねえしな」 下手に鑑定されて、この世界では有り得ない金属だの物質だのと妙なことになっても面倒だ。 三枝さんはひとつ息を吐いて、哀れそうな目で私を見た。 「どっかやるとこ見つからねえと夏織ちゃんずっとそのまんまなんだろ?」 真顔でとんでもない事を言う。 「そんなわけ、」 「然様」 「さよう!?」 「ゆえに急を要しておる。勇者の呪縛から解放せねば」 なんだその設定は。横目で睨んだところで、視線はむなしく兜に遮断されるのみ。 もしかして、私は魔王に騙されたのではないだろうか。運搬の効率化などという口車に乗せられたのではないだろうか。無理やり着せて身に馴染ませた末、押し付ける気なのではないだろうか。ふつふつとそんな疑惑が炭酸の泡のように湧いて出てくる。 古びた軽トラが颯爽と滑り込んできたのはそんな時だった。 下着にも見えるランニングにパジャマのようなズボンというラフにもほどがある格好をした年配の男性が運転席から下りてくる。彼は三枝さんに向かって手を上げた。 「よお、ちょっと早かったかな」 「おうタケさん。まだ誰も来てねえよ」 タケさんと呼ばれた男性は人懐っこい笑みで歩み寄ってきた。知らぬ顔ではない。彼は竹田さんという。近所と呼ぶほどの近さではないので親交が深い訳ではないが、長く町内会に尽力していて、その関係で何度かうちに訪ねてきたことがある。 「家に居ると飲んじゃうからさ。早めに来ちまった。あ、来客中かい? 魔王さん、と…………誰だ」 竹田さんの表情は先ほどの三枝さんと同じものだった。 「甲冑の処分に困ってる?」 竹田さんは三枝家でたびたび開かれる麻雀大会のメンツであるらしい。事の背景を知るや、気が抜けるくらいあっさりとこう言った。 「なんだ、そんならあそこ持ってきゃいい」 「あそこってどこよ」 ぐっと身を乗り出した私たちの代わりに、尋ね返したのは三枝さんだ。 「ほら、寄り合い所のな」 あァ、と三枝さんは得心した声を出した。 「前置いといた鹿の剥製あったろ? あれ博物館だかなんだかに寄贈にしてから、どうも殺風景になったっつってよ。なんかねえかって探してたところでさ」 天の助け。 その申し出に、私たちが一も二もなく飛びついたのは言うまでもない。 果たして甲冑が風景に花を添える役を担えるかはそれぞれの感性に任せるとして、望まれて貰われていくならこんなめでたいことはない。だまし討ちみたいな手口の片棒を担いで、後ろめたさを覚える必要もなくなった。 私もホッとしたが、魔王はもっとホッとしていただろう。目を爛々と輝かせ、手をとらんばかりに竹田さんに感謝を述べている。 「よくぞ申したタケダ。老い先短いそなたの献身、忘れはせぬ。往生した際には死に水は取ってやろうぞ」 感謝を述べているはずである。 竹田さんは鷹揚に笑ってから、私の着ている甲冑を見た。 「そんでこれ、いつ引き取るよ」 「兵は神速を尊ぶ。すぐにでも持ってゆくがいい」 「じゃ、ちょっと行ってくるか。まだメンツ集まんねえよな?」 おう行ってこい行ってこい、と三枝さんは手をひらひらと振ってみせた。 「良かったなァ夏織ちゃん、学校にそれで行くなんてことになったら大変だもんな」 「バス通学はちょっと厳しいね」 その前にまず制服が着れないしね。 しかしそんな憂いはもう絶った。やっと呪縛から解放されるのだ。 万歳、と手を上げたつもりだったが、重みで上まで至らず、前ならえのポーズに終わった。 その矢先、ひょいと体が浮き上がる。 あ? と思う間もなく着地した。 浮いたのは魔王が後ろから持ち上げたせいで、着地したのは荷台の上だと私が気づいた頃には、軽トラは速やかに走り出していた。魔王と三枝さんの姿が景色の中で小さくなってゆく。 私は出荷される牛の気持ちをその日初めて知ったのだった。 我が家に回覧板がまわってきたのは、それから約二週間後のことである。 ゆるキャラ決定と題されたお知らせに、見覚えのある甲冑が、ゆるキャラ『ナイト☆くん』として紹介されていた。 |