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15話目 / 父帰るの巻



「もういいんじゃない?」
「まだ艶が足りない」
「手が疲れたよー」
「なら左手を使いなさい」
「うへえ」
 へこたれる私を尻目に、力強く団扇をあおぐ父の手は止まらない。ただ一点を見つめ、職人のような手つきでひたすらに風を送っている。その厳しい面持ちに甘えを許す気配はなく、私は渋々と団扇を手に作業を再開した。風に煽られた酢の香りがつんと鼻を刺激する。桶の中の酢飯はあおぐたびにつやつやと輝いた。
 私には物心ついた時から与えられていた仕事が三つある。ひとつは回覧板、それから食器の後片付け、そして酢飯をうちわで扇ぐ役だ。どれも仕事と呼ぶには他愛ない。恐らく家族の助けというより躾の意味合いの方が強かったのだろうが、長年続けば習慣となり、その三つに関しては誰に命じられずとも自然と体が動くように刷り込まれている。寿司桶イコール出番だ。私と、そして父の。
 単純作業とはいえ幼いの力だけでは炊きたての米の熱を奪うのは難しい。なので、父に手を貸してもらう形で私はいつも任務を遂行していた。母と祖母が支度をしている傍ら、父と二人で酢飯を扇ぐのは楽しい仕事のひとつだった。それは手を借りる必要のない歳になった今でも変わることがない。酢飯は父と私の共同作業と決まっている。そのせいなのか定かではないが、父が戻ってきた日は手巻き寿司と決まっている。

 父はここ数年、単身赴任をしている。頻繁に帰って来られない分、盆と正月だけはまとまった休みをとって帰省していたのだが、今年は担当していた工場の工場長が突然失踪したおかげでお盆どころではなくなってしまい、ようやく休暇がとれる程度に落ち着いた頃には夏は過ぎ去っていた。
ちなみに工場長は自分探しのためにインドに行ったらしい。タージマハルをバックに微笑む絵葉書が届いたのを最後に音信不通となったという彼の安否が気遣われる。もとより肉付きが薄いというのに、久しぶりに見る父の頬は更に削げ落ちていた。
「ところで夏織、ちゃんと勉強はしているんだろうな」
「まあぼちぼち」
「苦手な教科だからといって手を抜くんじゃないぞ、算数とか」
「数学ね数学」
 家を離れた時分、まだ小学生だったせいか、どうも父の中で私の年齢の更新がうまくいっていない。最低年に二回は顔を見ているにもかかわらず、帰って来るたび「そんな大きかったか」と欠かさず愕然としている。昨年など、お前ももう高校生か、としみじみしながら赴任先に去っていったというのに、クリスマスにサンタのブーツを送って来る始末である。この調子だと今年も送られてくるだろう。
「よし。そろそろいいだろう」 
 ようやく父の納得のいく酢飯が出来上がり、私は団扇から解放された。やれやれと一息つく私とは対照的に、父はてきぱきとしゃもじや団扇を片付け、作業をしていたテーブルに布巾までかける働きぶりである。せっかくの休みなのだからゆっくりくつろげば良いものを、根っからの几帳面な性格がそれをさせない。腰を下ろす間もなく、台所の戸棚を漁り始めた。
「何探してるの」
「海苔なんだが……見当たらないな。買い置きしてないのか」
「そこじゃ入りきらないんだよ」
 食器棚の裏から大量に詰め込まれた紙袋×3を引っ張り出して見せると、父はぎょっとして、なんでこんなに溜め込むんだ、リスか、と問いただしてきたが、むしろ私が聞きたいくらいである。おにぎりを握れども握れども一向に減らぬ海苔地獄。他にも片栗粉地獄とか、味噌地獄とか、ミートソース缶地獄とかその種類は多岐にわたる。台所に点在するストック地獄から遠ざけようと、私は居間へ父を追い出すことにした。
「あとの支度は私たちがやるから、荷物とか整理したら」
「そうだな。じゃあ頼むぞ」
 素直に応じた父は居間に置いたままの荷をほどき始めた。広げたスーツケースから取り出したお土産を淡々とテーブルに積み上げてゆく。自分の荷物より土産の方が多いのが常とはいえ、今回はやけに量が多すぎるのではないか。
 私の心情が伝わったのか、父は菓子箱をひとつ手にしながら首を振った。
「いやこれは隣近所に。ほらお隣さん挨拶がまだだろう」
「あ、そうか」
 空いていたお隣が埋まったと報告だけはしてあるものの、まだ顔を合わせてはいない。帰ったら一度ご挨拶しないとな、と真面目な父は電話口で語っていたのである。柱にかけられた時計を見上げ、父は土産を手に立ち上がった。
「こういうことは早い方がいいな。夕食前に行ってこよう」
 そう告げると父は鏡を覗き込んで身だしなみを軽く整えてから、玄関から出て行った。
 と思ったら、数分も経たない内に戻ってきた。それもバタバタと珍しく足音を荒立てて。
「もう帰ってきたの? 早くない?」
 家に滑り込んだ父は私に背中を向けたまま両手でドアノブを握っている。
「もしかして居なかった?」
「居た」
 端的に返した後、猛然と鍵という鍵をかけドアチェーンまで施した父は青ざめながら振り向いた。
「黒ずくめの悪魔みたいな奴が居たぞ!」


 手巻き寿司は自由度が高いだけに具の配分が難しい。つい欲張ってまぐろの上に山盛りのいくらを乗せたら、巻ききれずに海苔からこぼれてテーブルに落ちた。いくらの輝きは無機質な卓上に無様に転がっても尚うつくしい。もちろん拾って食べる。行儀が悪い、とお小言を言いそうな父が隣に控えているというのに、何のお咎めもない。その代わり母が私に釘を刺してきた。
「夏織ったらいくらばっかり食べて。イカ食べなさいイカ」
「えーイカ噛み切れないんだもん」
「噛めないなら飲めばいいのよ飲めば」
 食卓が少々豪華であること以外を除けば、流れる時間はいつもとなんら変わるところはないように見える。父を除いては。みな食欲旺盛で、寿司を巻いていくスピードも速い。父を除いては。
 いかにも団欒な風景に抗うかのごとく、父はひとり深刻な空気を纏っていた。注がれたビールにも手を付けず思いつめたような、混乱を隠し切れないような、およそ寿司桶を睨むにはそぐわない表情をのせて。 
「これは悪い夢だ働きづめで疲れてるせいだそうだ心が肺炎を起こしかけて」
「お父さんたらまだそんなこと言ってる。いいから海苔取って」 
「どうしてお前達は落ち着いて寿司なんて食べていられるんだ。魔王だぞ。隣の家、魔王なんだぞ」
 父の拳は重々しく音を立てて卓を打った。が、母は動じる様子を見せるどころか、けろりと手を伸ばして海苔を急かした。早く海苔とって。
 
 挨拶に行くと出向いたものの、父は魔王宅にたどり着くことはなかった。
 玄関を出てすぐに目撃してしまったからだ。隣の住居へ入ってゆく、羽を伸ばした黒くて禍々しいおよそ人とは思えない何かを。田舎の景色にミスマッチにもほどがある、その非現実な造形に呆気にとられ、しばし呆然と眺めていたが、頭に角らしきものが見えた時点で我に返って引き返したのだという。
 何を呼べばいい。警察か、軍か、それとも牧師か神主か。
 父は真顔で慌てていた。
 どちらかといえば冷静な人なので、腰を抜かしたり喚き散らしたりなど醜態こそ見せなかったが、めったやたらに眼鏡を押し上げる仕草に狼狽が現れていた。
 私はいつか、ダース・ベイダーが来た! と勘違いをして騒いでいた宮間くんの件を思い出し、父の肩を優しく叩いた。
 お父さん大丈夫、あれ魔王だから、と告げながら。
 そう宥めるのが最も効果的だと私はこれまでの経験から学んでいた。魔王だと一言告げれば、丸く収まるように出来ている。なんだまったく、人騒がせな。安堵の息とともにそんな言葉が吐かれると信じていた私に、大きく瞬きした父はしかし憮然と言い放ったのである。
 
 お前は一体何を言っているんだ、と。
 
 今度は私が大きく瞬く番だった。  
 そう、父は魔王を異物として扱ったのである。母も祖母も近所の誰もかれもが見せた、度を超えた柔軟さなどその強張った表情には欠片も見当たらなかった。困惑と混乱をさっくり混ぜ合わせたような、およそ正常とはいいがたい色しか浮かんでいなかった。
 本来ならば、その反応が当たり前であり真っ当なのだ。魔王ね、はいはい、という薄く平たい対応ばかり目にしていたせいで私もいささか見失いかけていたが、かの人は魔王なのである。よく見かける虫か何かではない。
 父は決して間違ってはいない。
 だがこの世は多数決こそが正義。
 平和にして狂ったこの町の正義を父に教えたのは、私ではなく買い物から戻ってきた祖母と母で、彼女たちはわいわいと夕食の準備に取り掛かりながら「隣? 魔王さんだけど?」「それがどうしたの?」と父の横面に軽いジャブを食らわせ、早々に戦意を削いだのだった。いっそ清々しいまでのあしらわれ方は、魔王と遭遇したいつかの自分と酷似しており、しみじみとした懐かしさを覚えたものである。この道はいつか来た道。
 
 伏せがちだった顔を上げた父は、酢飯の上に魚卵を敷き詰めんとする母を厳しい面持ちで見た。 
「なぜ私に黙っていた。今の今まで魔王が転居してきたなんて知らなかったぞ」
「隣に人が来たって言ったでしょ」
「人だとは聞いたが魔王だとは聞いてない。常識的に考えてみなさい、人の括りに魔王は入らない」
「ほんと細かい人ねえ。いいじゃない二足歩行なんだし人と同ジャンルで」
 のれんに腕押しと言おうかシャドウボクシングと言おうか、まるで相手にならないのである。父の拳は空を切るばかりで母をかすめもしない。 
「まあまあごはん食べなよ、全然手つけてないじゃん」
 適当にとりなす私を父は眼光強く振り返った。
「夏織」
「うん?」
「食べながら話すんじゃない」
「はい」
 もっと他に言うべきことがありそうなものだが、父の内部もいろいろと散らかっているのだろう。平常心を立て直すにはそれなりの時間がかかるものだ。肉親の険しい横顔を視界に入れつつ、私は牛のように大人しく酢飯をもぐもぐと噛みしめた。代わりに向いの祖母が微笑みの形のまま口元を開く。
「春彦さん、そんなにピリピリしなくても大丈夫よ」
 鋭利な空気を削ぐような声の調子はあくまでゆったりと。義理の親という遠慮もあってか、父の語気がいくらか弱くなった。
「しかしお義母さん」 
「こんなのよくあることじゃないの」
「よ、くある……?」
 かろうじて握られていた父の手から片方の箸が落ちた。
「このへんじゃ普通よ普通」 
 母の追い打ちで残された片方も遅れて落ちた。フローリングの床の上を仲良く二本転がってゆく。乾いた軽い音が父の混乱に拍車をかけた。
「よくある? 普通? この町はどうしてしまったんだ? 私にわかるようにきちんと説明をだな、」 
 父は完全に立ち上がっていた。いつになく興奮気味で捲し立てる父に、手巻きを楽しむ母と祖母からの明確な回答はない。食卓のわさびが切れたというプチトラブルに二人の興味が持っていかれてしまったのである。あらあら大変などと口走っている様子を見れば、その重要度は一目瞭然であろう。魔王<わさび(チューブタイプ)
 孤立感漂う父にデジャヴを覚えながら、転がった箸に手を伸ばして拾い上げる。私には父の気持ちがよくわかる。経験者として痛いほど理解できる。眼差しに哀愁とねぎらいを込めて私は父へと告げた。
「ふわっとした答えしか返ってこないから無駄だと思うよ」
「夏織お前まで、」
「だいぶ前に私このくだりやってるから」
「このくだり!?」
 この土地の非常識にひとり翻弄され丸め込まれてきた私にとって、共通の価値観を持つ者は貴重な仲間であり、その存在を歓迎しないわけはない。父が魔王を真正面から突っぱねたおかげで、あ、やっぱり魔王って世間的にさほどメジャーじゃないんだな、と改めて認識したところである。
 だがしかし、残念ながら父は登場が遅すぎた。初見では目を疑うような奇抜な柄も毎日目にすれば風景の一部となるように、角が生えた隣人も日々に混ぜれば徐々に馴染む。もちろん違和感は消えることはないし、今でも腑に落ちないことは山ほどあるが、確実に話題としての鮮度は落ちた。もう私は父のように新鮮に驚くことは出来ない。同じだけの熱と温度で分かち合うには、旬はとうに過ぎ去ってしまったのである。正直この援軍、私がまだ魔王に神経をすり減らしていた頃に欲しかった。
「お父さんにはあと数ヶ月早く帰ってきて欲しかったな……」
 憂いを込めて呟くと、父は一瞬怯み、いや父さんだって何も好き好んでだとか、できることなら早く帰ってやりたかったとか、しかし身を粉にして勤めに精を出すのもひとえに家族の為だとか、ばつの悪そうな口調で眼鏡のフレームを押し上げた。あの日の自分をほんの少し哀れんだだけで、別に父を糾弾したいわけではない。湿気始めた海苔を手に取って、割り切るように縦に破る。
「まあ誰に聞いても同じだから、慣れた方が楽だよたぶん……魔王に関しては私たち圧倒的少数派だから」 
 父の眉間に皺が寄る。
「異を唱える者がいないとでも?」
 異を唱えるどころではない。私以外はみんなイエスの札しか持っていなかった。そうだよと答えると、眉間の皺はますます深くなった。私は魔王がちょくちょく訪れる土地柄であるらしいことを伝え、誰も戸惑いを示していなかった事実やすんなり町内会に加わった入った件など、これまで私が味わったアウェイ感を話して聞かせた。父がごくりと喉を鳴らす。
「まさか……三枝さんもか」
「むしろ……親しい」
 重い沈黙。
 昔から父は、気風が良く頼もしい三枝さんにどこか一目置いている節がある。父は瞼を下ろし、すっかり温くなったビールをゆっくりとあおった。
「そうだインドに行こう」
 それは仏像のように極めて静かな横顔だった。
「お父さん?」 
「ガンジス川は全て不浄を清めてくれるそうだ」
 父は真面目な人である。もちろんそれは美点に他ならないが、柔軟性に乏しいとも言える。母ほど大雑把ではないにせよ、半分その血が体に流れている私と比べて、理屈に合わないことを消化するのが不得手だ。
 道を踏み外そうとしている父を刺激しないよう、私はできうる限り穏やかで凪いだ声で語りかけた。
「繊細な人はインドに向かないんじゃないでしょうか。水は合わないし治安も悪いし」
「魔王がいる時点で日本の治安も推して知るべし」
「大丈夫、見た目ほど害はないから」
「害がない癖になぜ魔王を名乗る。悪逆の限りを尽くしてこそ魔王じゃないのか」
「遠征先では大人しくするのがマナーなんじゃないの……知らんけど……」
 私が誘致したわけでもないのだから、魔王業の方針について追及されても困る。本人に聞けとしか言いようがない。
 その時、来客を知らせる呼び鈴が高らかに響いた。おそらく鈴木さんが回覧板を持って来たのだろうとお茶を一杯ひっかけてから玄関に向かうと「まだ話は終わっていない」などと言いながら父が追いかけてきた。何もついてこなくても良さそうなものだが、次元が違う二人のいる食卓に残されたくはなかったのだろうと思い、特に止めはしなかった。しかしそれは判断ミスだった。私は父を椅子に縛りつけてでも留めておくべきだった。
 何しろ現れたのは回覧板を携えた鈴木さんではなく――
「無警戒に開くなと申しておろうが」
「うわっ」
 現在、話題沸騰のご本人様の登場に、私は本気でびっくりして後ろにのけぞってしまった。だが私以上のびっくりに襲われている人がいるのでおちおち動揺もしていられない。慌てて背後を振り返ると父は棒立ちで凍結していた。瞬きもなく、悲鳴を上げた口をそのまま半開きにして。ああ、私の父親が古いPCのごとき動作不良に。
「日が落ちれば闇にまぎれて魔が跋扈する。気を引き締めよ」
 人を一人凍りつかせたとも知らず、魔を司る当人は夜更けを背後に朗々と用心を語った。高く伸びる禍々しい角も月ほど白い肌も、暗幕のような夜につくづく映えるものだと幾度見ても感心する。と、魔王で占められていた視界が壁に遮られた。
「む、むむ、娘から離れなさい!」
 眼前に父の背中がある。完全フリーズしていたと思われた父は、私の姿を隠すように魔王の前に立ちふさがっていた。勇ましい言動とは裏腹に、声と肩が尋常ではないほどに震えている。いつかの三枝家のチワワを思い出した。
 お父さん、と袖を引く私にこたえることなく、父は震えたまま魔王にこう言い放った。
「生贄ならば娘ではなく、わ、私を連れていくがいい。その代わり娘や家族に手を出さないと、今ここで約束したまえ」
 どうやら父の中で魔王を元凶とする悲壮な物語が展開されているようだった。魔王自ら生贄を回収に来るとは相当に逼迫した局面である。思い込みとはいえ危機に瀕しても怯まず家族の盾となろうとする父の愛に私はじんと胸を打たれてしまったが、浸っている暇はない。誤解と勇み足が掛け合わさっていらぬ揉め事を招いている。
 一方、突然見知らぬ男に難癖をつけられた魔王といえば、訝しげに睨めつけてから、背後の私にその視線を遣わした。遥か高みから見渡す魔王にしてみれば、父が築いた城壁など目隠しにもなるまい。
「これは誰か」
「すいません父です」
 魔王の瞳が意外そうに瞬いた。
「ほう……まさか生きているとはな」
「だから最初っから生きてるって言ってたじゃないですか」
 神に誓って父の死亡説など一度たりとも流していない。
「ふ、よくぞのこのこと現れたものよ……そなたの一族はすでに余の手中に落ちた。今更羽虫が一匹増えたとて何の足しにもならぬが、仕えることを許そう。せいぜい忠誠を尽くすがいい」
 魔王にとっておそらく挨拶に過ぎないのだろうし、住民たちも抵抗なく聞き流していた。が、これまでとはメンツが違う。この町では「異端」、広い世界でとらえれば「普通」の感覚の持ち主が、この台詞を好意的に解釈できるだろうか? 
 答えは否である。聞き慣れた私でさえ、悪役の無慈悲な宣告としか響かない。
 恐る恐る目をやれば、元より良いとは言えない父の顔色がますます青ざめていった。それが怒りか絶望かまでは判断でないものの、ご機嫌な色合いではないことはそう賢くない私でもわかる。
 不穏だ。どう贔屓目にみても和やかではない。私は妙な空気を叩き割らんと父と魔王の間に滑り込んだ。
「ところで! 魔王さんは! 今日何のご用で!」
 威勢よく切り込むと、魔王は父への興味をあっさり手放し、うむと頷きながら懐を探った。安堵する間もなく、背後でヒッと声がする。
「じゅ、銃を出す気だな」
「ちょっとお父さん黙って」
 父の魔王像は即席のせいか、どうも方向性が定まっていない様子である。ファンタジーなのか近代的なのかどちらなんだ。
 ほどなく魔王が闇色のマントから取り出して見せたのは、当然父が懸念した物騒な銃などではなく、もっと薄くて小さいものだった。掌におさまる、カードが一枚。
 「往来にこのような紙片が落ちていた」
 差し出されるまま受け取ると、見覚えのある名前と写真が目に入った。父の免許証だ。泡を食って引き返してきた際、迂闊にも落としたのだろう。
「わざわざありがとうございます、助かりました」
 紛失すれば大事になる。礼を告げたあと、背後を振り返れば、父は態度を改めるどころか唇を噛みながら顔を敵意に歪めていた。さすがに目に余り、私は父に耳打ちをした。
「礼くらい言いなよ。届けてもらってそんな」
 真剣な小声が返る。
「馬鹿、個人情報が敵の手に渡ってしまったんだぞ」
 隣家に住んでいる時点で大方の情報はすでに割れていると思うのだがどうか。
 若さの差か、持って生まれた性質か、はたまたタイミングの良し悪しか、父はかつての私よりも魔王の存在を頑なに拒んでいる。宮間君も結構尖った態度ではあったが、あれは魔王への畏怖がそうさせたのではなく、なんだこいつ気に食わねえ、というチンピラの威嚇みたいなものだった。
 対して、父の目つきは天敵に対するそれである。怯えながらも抵抗する気満々なのである。ひょろりと細く、昔キャッチボール一球目で肩を外したというもやしっ子らしい経歴を持つ父の、思いもよらぬ闘志に正直驚きを隠せない。人は見かけによらないものだ。しかしここでゴングを鳴らすわけにはいかないのである。勇者VS魔王の組み合わせは世の摂理として仕方がないとしても、父VS魔王の対戦カードは歓迎できない。
 私は魔王と並ぶように立ち、咳払いを一つ。
「お父さん、まあちょっと受け入れがたいかも知れないし、どうかしてると思うかも知れないし私も半分くらいどうかとは思ってるんだけど、何だかんだ魔王さんにはお世話になっていてね」
 上司に気を遣う部下にも似た気持ちで、切々と父に有害ではないと訴えた。横でその様子を見ていた魔王は援護のつもりか得たりとばかりに頷き、不敵な笑みで花を添えた。
「人間ふぜいと侮っておったが、そなたの娘は余の片腕として存外よく働いておる。誉れと思え」
 無駄だとはわかっているが、せめて、今だけでも、もう少し人間界でも通用するマイルドな物言いを、と願わずにはいられない。
「片腕?」
 父の片眉が大きく跳ね上がる。そのまま私を視線で詰問した。後ろめたさもあり、私の口調は自然と言い訳がましいものに。
「あーそんな大層なもんじゃなくて、お隣さんとして少しお手伝いとしたとかその程度のことで、」 
「策や企てがカオリの主な務めよ」
「ワー」
 あたりさわりなく伝えようとした私の気遣いは魔王の親切な補足によって砕け散った。予想通り父の表情はますます曇ってしまった。
「関わっている時点で感心しないというのに、悪事の片棒をかつがされるとは……」
 額に手を当てて悄然とする姿は、非行に走った娘を嘆く父親といった趣である。まあ我が子が魔王の手下と知れば、大抵の親御さんは心穏やかではないだろう。悪い仲間と付き合うな、とは多くの親が口にする定番の説教ではあるが、魔王となると悪さのスケールが違う。盗んだバイクで走り出すくらいならば頬を打って止めることは出来ても、魔の軍勢を率いて城を襲うまで行ってしまった場合、いくら親の愛を駆使しても制止するのは難しい。
「娘には将来がある。その妨げになるような真似はよしてもらいたい」
 先ほどの震えはどこへやら。父は気丈にもまっすぐと魔族の長を見据えている。
 私が何か言うより先に、魔王が一歩踏み出した。見下ろすその笑みは邪悪そのもの。
「案ずるでない。いかにふつつかな娘であろうと一度召し抱えた以上、余が責任を持って引き取ろうぞ」
 途端、青ざめていた父の顔が紅潮した。
「なっ……! だ、だれか嫁にやるかぁ!」
 目が点になった。
 娘を持つ男親の想像力は油田よりも豊かなのだと知った秋の夜。 
「違うから、多分そういう意味じゃないから、お父さんクールダウンクールダウン」
 背後からなだめるも、頭に血が上ってしまった父の興奮はなかなか冷めやらず、魔王だけが一貫してクールの様相である。発想が一足飛びの父に非があるとはいえ、元凶である魔の手先が最も落ち着きを払っている状況、どこか腑に落ちない。 
「爽やかで誠実そうな青年が娘さんを下さいと来るならまだしも、こ、こんな禍々しい、住民票もどこにあるかわからないような男に! 誰が!」
 そう吠えたあと、肩で息をしながらよろけるようにして父は一歩後退した。少し頭が冷えたのか、興奮の残る震えた眼鏡を押さえ、短く息を吐く。
「そもそも、うちの夏織は公務員試験を受けて役所に勤めると決まっている」
「愚かな。そなたの娘は血塗られた道を歩む運命(さだめ)」
「そうはさせるか。むざむざ魔物の餌食になるくらいならいっそ尼寺に」
「いやだから私農協狙いなんだって」
 こんなに為にならない三者面談も珍しい。公務員も血塗られた道も尼寺も、私の将来設計に組み込まれる予定は今のところないのである。人の進路で勝手に盛り上がらないで頂きたい。
「あっそうだ、お土産」
 少しでも空気を変えるつもりで私は大袈裟に手を打った。父がお隣さんにと用意したものの、魔王の手には渡らず(引き返してきたのだから当たり前だが)棚の上に放置されている。賄賂ではないが、今日のところはとりあえず菓子折りに免じてこの場を引いて頂こう。
「これさっき届けに行くつもりだったんですけど色々ありまして」
 見た目よりずしりとしたその包みを恭しく魔王に捧げる。傍らで父はいかにも嫌そうな声を出した。
「夏織それは」
「もともとお隣さんに渡すつもりだったんだからいいじゃん、余らせても仕方ないし」
 遮るように言うと、父は伏し目がちになった。
「お隣さんがもっと想像を超えない平凡な姿だったなら……どんなに良かったか……」
 せめて人類、と父が小さく呟いた。
 それが聞こえなかったのか、聞こえていてもどうでも良いのか、魔王は私の手から躊躇いなく菓子折りを受け取った。
「ほう貢物か」
 天井のライトに当てるように掲げ、しげしげと透視するように眺めている。
「焼き菓子では及びもつかぬ重み……中身は何と心得る」
「この包装紙から見るに……羊羹かな」
 魔王の口の端が上がった。琴線に触れたらしい。今となっては不本意だろうが、父の土産選びのセンス、魔王にクリティカルヒット。菓子折りを片手に、魔王は爪で顎をさすりながら高慢に告げた。
「絶望で染め上げた漆黒の菓子は甘美なものよ。愚民ごときがその曇った眼でよくぞ選んだ」
 父のこめかみに青筋が浮いた。これを魔王なりの礼だと理解するには、少々父にはキャリアが足りない。
「買ってきたのは父なんで、礼なら父に」
 そうか、と存外素直に魔王は父へと向き直った。
「父よ」
「君に父と呼ばれる筋合いはない」
「ならば、ひょうろく玉とでも呼べばよいか」
 青筋の数が増した。
 ああ、うん、無理だな。
 この二人の関係修復は無理だな。
 私は心中で匙を投げた。助走をつけて槍投げの要領で投げた。空を割り雲を裂き、どこまでも飛んでゆけ。
 この町の住民達による魔王への大らかさはやはり不思議で普通とは思えないが、父のように常識的に向き合い過ぎて大いにこじれるというのも、これはこれで面倒くさい。やはり人生には多少のアバウトさが必要だ。 
「私が留守にしていたばかりにこんな……この先しばらくまた家を離れることを思うと気が気じゃない」
「大丈夫だよ案外うまくやってるから」
「よくこの環境で大丈夫と言い切れるな。お前は母さんの血が濃い」
 父はかぶりを振った。
「また犬でも飼うか……魔王を追い返す番犬として」 
 残念ながらそれはまったくの逆効果である。魔除けどころか余計入り浸ることになろう。
 魔王の目がぎらりと鋭く光った。
「今、犬と申したな」
 食いついてきたあ!
「いるのか。どこだ。余に隠れて畜生を囲うとは良い度胸ではないか。さあ今すぐにこの場へ引っ立てよ」
表情は剣呑だが確実にテンションが高くなっている。普段よりもやや早口で詰め寄って来る魔王を私は両手で押しとどめた。
「昔ですよ昔、犬飼ってたのは過去の話! 今はいません隠してもいません」
 すると魔王はみるみる冷めたような顔つきになり、つまらんとばかりに舌打ちをした。勝手に早とちりをしておいてそれはないんじゃないか。
「もしかして犬、好きなのか……?」
 耳元で父が囁く。
 父は犬が好きだ。すでに老衰でこの世を去ったが、以前柴犬を飼っていたことがあり、それはそれは可愛がっていた。共通点は人を近づけるものである。犬好き同士親近感がわくか知れないとほのかな期待を抱き「大好きらしいよ」と答えると、予想に反して父の顔がさっと強張った。
 この時私は気が付かなかったが、父が尋ねていたのは、愛玩動物としてラブの意味ではなく、食糧としてイートかどうかという意味であり、私はそれを全力で肯定してしまったのである。大好物! くらいの勢いで。親近感どころか、二人の間に横たわる溝がマリアナ海溝より深まったのは言うまでもない。
「夏織、塩だ、塩を撒きなさいっ」
「お父さん落ち着いて、たぶん塩が効く相手じゃない」
「塩? さては土俵入りか」
「違う! ていうか相撲見てるんですね!」
 騒ぎを聞きつけてか、どたどたと賑やかな足音が近づいてきた。遅れて控えめな足音も追ってくる。
「誰かと思ったら魔王さんが来てたの? なに? 落し物? あらすいませんもうお手数おかけしちゃって」
 父のただならぬ様子を一顧だにせず、母は至って朗らかに対応した。しゃもじを布巾で拭っているところを見ると、後片付けでもしていたようだ。あの、まだ私たち食べてる途中だったんですけど。
 母のよく通る声の後ろから、小柄な祖母が顔を出した。ちょうど良かった、これからメロン切るところで、と言いながら、倍ほどの背丈の魔王を見上げる。
「ご迷惑でなかったら魔王さんもご一緒に」
「なっ、お義母さん!?」
 父がぎょっと目を剥いた。
「なぜこんな怪しい奴を招くんです」
「そりゃあメロンよく冷えてるから〜」
「説明になってない……! あ、こらっ私は許可してないぞ! 待ちなさい、勝手に上がるんじゃない! 裾! 引きずるな! 何の意味があってそんなに長い服着てるんだ!」
 お取り寄せまでしてグルメを楽しむ貪欲な魔物が、よく冷えたメロンという魅惑の誘いを断るわけもない。憤慨する父をよそに魔王はいそいそと我が家の居間へと吸い込まれていった。家を長く空けると発言権も失われてゆくのだなと、と私はしみじみ思いながら父の背中を追った。
 
 よく冷えたメロンの果肉は甘く、不協和音を若干和らげてくれた。
 余談だが、その時見ていた旅番組の背景に失踪した工場長が映りこんでいるのを父が発見した。ガンジス川で沐浴する彼はとても澄んだ瞳をしていた。


    
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