4話目 / 犬ころの巻



 冷蔵庫を開けたらプリンと目があった。
 母がよくサンダースで買ってくるような三連パックのそれではない。容器の瓶はずっしりとしており、蓋部分を覆う金で箔押しされた黒い和紙が、いかにも安売りを許さない高級感を醸し出していた。なんだか都会の匂いがする。わさび漬けやねぎみそなどがセンターを飾る瀬野家の冷蔵庫に紛れ込むにはややイレギュラーな存在感に自然と手が伸びた。
 馴染みがないものの、パッケージそのものはどこか見覚えがある。いつだか放映された、お取り寄せグルメ特集の商品のひとつだ。夜の九時という小腹がすいてくる魔の時刻に天使のバームクーヘンやら漁師自慢の牡蠣の佃煮など、数々の目の毒をお茶の間に流し、私たちを大いに歯噛みさせてくれたものである。
 なぜ、その件のプリンが今ここに。
 誘惑に屈した家族が注文したのかとも考えたが、母は「おいしそう」を連呼する割に一晩経てば熱を失うタイプであるし、祖母は通販でサメの軟骨以外決して買わない。首をひねっていると祖母が畑から戻ってきたのでプリンを手にしたまま居間へ問いかけた。
「ばーちゃんこのプリンー」 
「うんー食べていいよー」
 祖母の声が洗面台の方から響いてくる。
「誰が買ってきたのー? あ、お土産とか?」
「魔王さんがねーさっき持ってきてくれたのー」
「えっ」
 いわゆるスイーツと呼ばれる類の、しかもこんなシャレオツな品を魔王が。意外な思いでプリンのパッケージをまじまじと眺め、思い返してもう一度冷蔵庫を開くと、そこには同じものがあと二つ並んでいた。家族の人数分おすそ分けとは心憎い気遣いではないか。記憶が確かなら、行列もできるほどの人気店だったはず。おいそれと口にできるものではないというお得感も手伝って、私は現金にも嬉しくなってしまった。魔王め、やりおるな。
 
 プリンはおいしかった。とてもおいしかった。なぜか正座して目を閉じながら食べた。
「こんなハイカラなもの頂いて、何かお返ししないと」
 流しで後片付けをしている背中に向かって祖母がそんなことをいったので、私はそうだねえ、と相槌を打ちながらも台所を見渡した。お返しといっても、いま我が家には母が焼きすぎて冷凍保存するしか道のなくなったホットケーキくらいしかない。味は悪くないものの、鍋敷きか何かかと疑う程度には形が歪(いびつ)で、自分たちの腹に入れるならまだしも、これを人様に差し上げるのはなかなかの度胸である。
 思いあぐねていると背中にまた声がした。
「また野菜でもと思うんだけど」
「あ、いいんじゃない」
 私は祖母の提案を快く支持した。ひしゃげたホットケーキよりずっと格好がつく。
 初日の挨拶で留守にしていたことをずっと気にしていた祖母は、少し前、自家製の野菜をいくつか手土産に魔王邸へと赴いた。その際魔王は自家製、特に祖母自身が育てたという部分にいたく感激し「老いさらばえた身で見上げた根性よ」と言い放ったという。ほとんど罵倒だと思うのだが、祖母は気分を害した様子もなく(なぜなんだ)「魔王さんは一人っ子なんですって」などと、果てしなくどうでもいいのか墓場まで持っていかねばならない機密事項なのか、受け止め方のわからない情報を携えて意気揚々と帰ってきたのだった。
 魔王の言動に問題がある点については置いておくとしても、歓迎されたのは事実であるらしいので、野菜なら迷惑になることはないだろう。
「夏織、玄関に置いとくから持って行ってくれる?」
「いいよー」
 水道の蛇口を締め、適当に手を拭いながら、玄関に向かった。
 まず祖母が用意したお返しに目が止まり、ついで足が止まる。
「ばーちゃん、これ?」
「うん」
「これ?」
「うん」
 ビニール袋に十個ほど詰められた様を思い浮かべていた私は、積まれた段ボール二つを前にして、棒立ちになってしまった。おすそ分けを超えて、もはやこれは出荷。
「大家族でもない家にこの量はちょっと……どうかな……」
「少ないよりいいかと思って……」
「なにごともほどほどが一番だと……」
「魔王さんピーマン好きだって言ってたし……」
「そうなんだ……下手すると好きが嫌いになる可能性もあるねこれは……」
 祖母の言葉尻は弱く、どうやら本人にもちょっと無茶をしたなという自覚はあるらしい。それにしても、祖母が一人でまかないきれる程度の菜園でこれだけ大量に実るものだろうか。魔王が好きだという噂のピーマンだけでも一ヶ月分はゆうにある。とそこまで考えて、気がついた。
「近所からもらっちゃったんだ?」
「うちでも作ってるからとも言えなくて……」
 土地だけは広々と使えるせいか、農業を生業にしていなくとも、庭先に菜園を設けている家庭は多い。
 肥料や土の違いはあれど、気候などの環境条件は変わらないため、育てる野菜はどこももろ被りだ。トマトきゅうりピーマン茄子、各家庭ほぼ同じ時期に収穫を迎え、とれすぎてはそれぞれ持て余し、かといって廃棄するのも忍びないという心理から、好意と称して近所の玄関先に置き去りにしていったりする。鈴木さんと中村さんの家など、互いの留守を狙ってはナスの袋詰めを五回ほどラリーさせたと聞く。
 うちは留守にはしていなかったが、祖母は人がいいので断りきれなかったのだろう。
「魔王さんとこは一人だろうし、食べきれる範囲の量にしてあげようよ」
 してあげようよ、という言い回しもいかがなものかと思うが、今のこの場にはふさわしい。祖母はそうねえ押し付けちゃ気の毒よねえと頷きながら、袋にそれなりの数の野菜を詰め替えていた。お礼をしにいくのか厄災をもたらすのかわからなくなってきた。
「残りどうしよう」
「三枝さんち、今年から畑やめたらしいし持って行ってみようか?」
 祖母は目を光らせて、段ボールまるまる一つ分を私に託した。三枝さんのお宅は現在三人暮らしなので、単身の魔王とは違い手加減は無用なのである。



 魔王はやっぱりドアチェーン対応だった。
 早々に瀬野だと名乗っているのに、開くドアの幅は頑なに15センチ以下。すぐにチェーンは外されるので意味を全く感じないのだが、最初はグーのしきたり同様、最初はドアチェーンという魔王なりの出迎えの手続きがあるのかも知れない。
 いくらか慣れたとはいえ、直接訪ねるのはまだ少し緊張する。チェーンを解き、玄関口に全貌を現した魔王はいつも通り威圧感を漲(みなぎ)らせていた。
「あの、プリンありがとうございました。これ良かったら」
 差し出したビニール袋の持ち手を長い爪が引っ掛けるように奪う。
「よい心がけぞ」
 老女は息災かと言いながら、魔王は目線は袋の中身をしげしげと伺っていた。
「おかげさまで。さっき一緒にプリンいただきました」
「施した甘味は口に合ったか」 
「それはもちろん! おいしかったです、すごくすっごく」
 何度も首を縦に振り力強く答えれば、魔王はうむ、と満足そうに低く頷いて私を見下ろした。
「ならば再び授けてやろう。雁首揃えて味わうがいい」
「えっ、いやそんな、魔王さんの分がなくなるんじゃ」
 すでに三つも頂いているのにこれ以上は。
「構わぬ」
 両手を大きく振って示した遠慮の意思を重低音が遮った。
「仕損じて五個入り一箱の品を五箱買い付けた」

5×5=25プリン

「……それは……大変ですね……」 
「冷蔵庫の棚一段が占拠される由々しき事態よ」
 鋭いばかりの切れ長の瞳に、今はうっすら悄然とした灯火が見える。ありがちなミスとはいえ、日持ちのしない乳製品2ダースは痛い。同情した。
 それはそうと「買い付けた」という弁から、特に魔力でどうこうしたわけではなく普通に発注して取り寄せたいうことが明らかになったわけで、ごく当たり前の手続きなのだが角も羽も生えている相手なだけに不思議な気持ちになる。
「注文はあれですか、電話とかですか」
「ファクシミリぞ」
「へえ」
 魔王からの口からさらりと出た横文字への動揺はなんとか噛み殺した。
「魔王さんもお取り寄せとかされるんですね」
 スーパーで買い物に対しての堅実な姿勢を目にしているだけに、贅沢品とされる食品に興味を持つとは少し意外な気がしていたのである。それを思ったまま口に出したにすぎないのだが、散財を咎めたように伝わったのか、ふっと目をそらした魔王は言い訳がましく「常に努めを怠らぬ己への褒美である」などと意識の高い女子のようなことを言った。さてはこの魔王、女性誌を購読しているな。
「すいません、まだこれから寄らなきゃいけないところがあるので、帰りにもらってもいいです?」
 止める間もなく奥に引っ込んで、プリンと思われる白い箱を抱えてきた魔王にそう声をかけると、魔王は一瞬顔をしかめて、箱に貼られた賞味期限のシールを見た。
「二晩の内に戻るか」
「戻れなかったら困ります」
 私にはつっかけサンダルにTシャツの軽装でそんな遠出をする思い切りの良さはない。
「三枝さんとこ行くだけなんで、五分もあれば」
 魔王の片眉が持ち上がる。
「三枝に何用ぞ。回覧板であれば余が」
「あ、そうでなく野菜を」
 足元に下ろして置いた野菜入りの段ボールを示す。魔王は「ふん」だか「うむ」だか判別できない、しかし威厳だけは感じる音で応じた。どうも歯切れが悪い。妙に感じて様子を伺えば、表向きは悠然と構えながらも、隠しきれない落ち着きのなさが端々に見えた。そわそわ。
 ああ、犬か。犬だな。行きたいんだな。
 せわしなく耳をぴくぴく動かすくらいなら素直に言えばいいのにと感じる一方、魔王ともあろう者がワンちゃん愛でに行きたいとは言いにくいなそりゃ、という納得もある。
「学校帰りに見かけたから、たぶん三枝さん今日は家にいるんじゃないかと」
 途端、魔王を取り巻くそわそわが倍ほどに膨らみ、そわそわそわそわ、くらいになった。
「あそこのおじいちゃん甘いもの好きですよ確か」
 せめてものプリンの恩返し。私はサービスのつもりで絶妙なパスを出した。魔王はそれをスルーすることなく食らいつき、いい口実見つけた、みたいな顔でゴールネットを揺らした。
「ちょうど良い。三枝の本丸に挨拶方々奇襲をかけてやろう」
 そう声高に叫び、魔王は私を差し置いて玄関から勢いよく飛び出していったが、五歩ほど進んだところで踵を返し施錠の為に引き返してきた。そのあとノブを回しての確認も抜かりない。うちは殆ど鍵をかけないので感心していると、そなたは警戒心というもの云々と延々道すがら説教を食らった。



 昔このあたり一帯の地主だったという三枝さんの敷地は広く、古い作りの邸宅のほかに、平屋の離れや大小様々な物置や小屋が点在している。家の中でじっとしていられない性分なのか、雨や留守の日以外はだいたい野外であれこれ作業をしているような人で、今日もベンチに腰掛けて何かの部品を磨いていた。そのすぐそば、無造作に置かれた柵の中を、チワワの群れがちまちまと動いているのが見える。足音に気がついた三枝さんが顔を上げた。
「おう夏織ちゃん」
「こんにちはー」
「それ彼氏か?」
 思わぬ角度からの被弾。
「なんだあ、照れて」
 不意をつかれて咽(むせ)る私に三枝さんは容赦がない。 
 田舎のお年寄りはとかく噂好きで、年頃の男女を見ればとりあえずデキてることにしたがるものだが、まさか魔王まで同じ扱いとは考えが及ばなかった。地獄の蓋が開きそうな出で立ちを前にして「彼氏」が真っ先に出てくる強靭な発想、見習いたい。
「朋子さんから聞いてない……? 魔王さん、最近引っ越してきた人だよ」
 朋子さんとは、同居している息子のお嫁さんのことだ。三枝さんは、そうだっけな、なんだ夏織ちゃんの祝言かと思ったのによう、と飛躍した言を吐き、若干欠けた歯を見せて笑った。半分は冗談、しかし残り半分は本気なので油断ならない。
 私が先制攻撃を受けて怯んでいるというのに、魔王はといえば小型犬ハーレムを前に気もそぞろな様子で、挨拶どころか一度も三枝さんの方を見ていない始末である。あからさますぎるだろう。わざわざ用意した顔見せという建前はどこに行ってしまったのか。
 三枝さんから見えないように肘でつつくと、魔王はハッとして、ようやく目線を三枝さんに向けた。そしていつか私に蕎麦を授けた時と同じく、尊大に、ものものしく、上から目線で箱を手渡した。中身がプリンと知るや、三枝さんの皺の目立つ顔が更にくしゃりと笑み崩れる。
「おう、悪いな兄ちゃん。まあなんもねえ町だけどよ、困ったらなんでも言いな」
 兄ちゃんて。荷物持ちを頼んだり呼び捨てにしたりと、魔王に対するフランクな扱いは何度も見てきたが、さすがに兄ちゃん呼ばわりする人はこれまでいなかった。いいのか、それでいいのか魔王。
「以後よろしく頼もう、三枝の老いぼれ」
 と思ったら魔王も充分に無礼だったので、ああいいのかとそよ風が吹いた。

 祖母から託された大量の野菜も無事受理され、一応の目的は果たした。が、まだ帰還は許されない。魔王が目配せというにはあまりに鋭い視線を遣わしてくるのである。さあ言え、早く動くのだ、余に犬と接する機会を与えよと。
 背中に穴が開けられそうな圧を感じつつ、私は自分に出来る限りの無邪気を装って、柵の中で転がるチワワに駆け寄った。私の演技力については、学芸会でワカメの役しか与えられなかった過去の実績から察して欲しい。
「ワア、今日もワンちゃん、毛艶が最高潮! な、なで回してもいい?」
「ん? いいも何もいつも勝手に触ってんだろ」
 三枝さんの冷静な返答をほぼ無視する形で、私は足元に絡みついてきた黒いチワワをわっしょーいとばかりに抱き上げた。
「あーかわいいなーかわいいなー犬はかわいいなあーほらほら魔王さんもご一緒にどうですか」
 猛烈な勢いで顔面を舐められるまま、魔王の期待に沿う誘い文句を放った。てっきりいそいそとやってくると思いきや、魔王はいささか躊躇う素振りを見せてから(わざとらしい!)歩み寄るなどして、あくまでお前が言うから仕方なく出向いてやるという姿勢を貫いた。
 暇さえあれば近所の人がふらりと立ち寄る開放的な環境にあるせいか、基本的にどの子も人懐っこい。人を見れば誰彼構わず短い尻尾を振って飛んでくる。愛くるしいことこの上ないが、六匹もいると大騒ぎである。
 しゃがみこんで一匹を撫でていると、背後からのしかかるように別の犬が。
「こら、えーと、マチコ」
「サト子」
「ああマチコはこっちか」
「夏織ちゃん若いのに物覚えがいまひとつだな。ほら来い、かおる」 
 今でこそ単なる犬好きのじいさんといった風情だが、祖母いわく三枝さんは昔なかなかの男前で、様々な浮名を流しては女を泣かせる、有名なプレイボーイだったらしい。数年前には隠し子も発覚し、ちょっとした騒ぎになった。
 年老いた今、さすがに落ち着いたのかその情熱は女性ではなく犬に向けられている。ただ、チワワに与えられたマチコ、サト子、かおる、ふみ、菊江、ブレンダ、がそれぞれ過去の女の名前ということは公然の秘密である。
 柵の隙間からお転婆なブレンダが逃げ出し、三枝さんが年を感じさせない健脚でそれを追いかけていった。
 念願の犬だらけを魔王は満喫しているだろうか。
 キャンキャンと足元に絡むマチコとサト子を踏まないようにして背後を伺うと、チワワを抱きかかえる魔王が目に入った。

 お世辞にも微笑ましい光景ではなかった。

 想像したワンワンふれあい広場とは一線を画した緊張感、強いて言うなら悪い子いねえがと凄む秋田の妖怪と固まる子供。
 抱えられているのは他の犬に比べてもひときわ小さい薄茶色のチワワ(たぶん菊江)で、魔王が巨躯なだけにいよいよ小粒に見える。
 菊江は小刻みに震えていた。チワワは普段から震え気味とはいえ、そんな生易しいものではなく、振動の細かさは電動歯ブラシのヘッド部分に近かった。
 明らかに魔王に怯えている。
 魔王を魔王と理解しつつも受け入れてしまう、度が過ぎた柔軟性を備えているのはどうも住人だけらしい。身の内の野生が反応するのか、動物は素直に警報を発している。
 対して魔王は実に興奮のご様子だ。存分に犬を愛でることが出来て昂ぶっているのだろう、楽しい気持ちが振り切れすぎて、比喩ではなく目が輝いている。
 普段、魔王の目は銀と灰を合わせたような色合いに落ち着いている。しかし今は万華鏡のようにいくつも入り混じり、緑がかった色に変化していた。それがLEDライト並にビカーッと強烈に光るのみならず、にたりと底知れぬ笑みまで加わっているのだから、チワワでなくても怖い。
 
 どちらにとってもこれは悲劇。
 魔王に抱き上げられて寿命を縮めているチワワも哀れなら、とって食うわけでもないだろうに全力で毛を逆立てられてしまう魔王も気の毒だ。しかしこのまま菊江を見捨てるわけにはいかない。震えすぎてシェークになる前に助け出そうとじわじわ距離を詰めている途中で、魔王に気取られた。
「カオリ」
「ヒィ」
「何故この者共は余が触れると屍のごとく黙するのか」
 跳ね回るチワワに囲まれている私への羨望の眼差し。さすがに様子がおかしいと感じてはいたようだ。正直に答えていいものかどうか躊躇ったが、本気と書いてマジと読む目力に押され、ごにょごにょと濁しつつ口を開いた。
「まあその、怖い……というか、なんというか」
「参謀として具体的な策を示せ」
「参謀でしたっけ!?」
 いつから魔王傘下に……とたじろぐ反面、頼られると弱い。
「えー……せめて格好を変えてみるとか」
 人は見た目が9割だと聞く。立場上、人畜無害な風貌では商売あがったりだろうし、端正なつくりながらも滲み出る悪役的な迫力はもう仕方がないとして、せめて装いだけでも柔らかくできないものか。
 一旦チワワを私に預けた魔王は、己の黒装束をつまんで眺めた。 
「この程度が畏怖を与えるか」
 少なくとも私はこの格好の人に道は聞かない。
「黒くて面積も大きいし、小動物には警戒されるかも知れません」
「臆病な犬だからなァ」
 振り返ると、捕まえたブレンダを小脇に抱えた三枝さんがこちらに向かって歩いてくるところだった。
「あー毛がついちまったか。兄ちゃんそのぞろっとした、ピアノカバーみてえな服脱いじまった方がいいわ」
 言うが早いか、三枝さんは家屋に向かって何事か呼びかけ、出てきたお嫁さんに「ちょっとこの兄ちゃんにあいつの服着せてやってくれ」とそこらの坊主のような扱いで魔王を突き出した。魔王は抵抗することなく、それとも抵抗する暇もなかったのか、はいはいこっちねとお嫁さんの朋子さんに引っ張られて、あれよあれよと家の中に消えていった。
 近所とはいえ、つい最近越してきたばかりの相手をつかまえてこの距離の詰め方、半端ではない。年の功すごい。
 三枝さんは、あんなもん着て山入ったらよう、熊に間違えられて蜂に襲われっぞ、なあ? と膝に乗せた犬に喋りかけていた。
 
 ほどなくして魔王を吸い込んだ玄関が、控えめな音を立てて開いた。
 先に姿を見せたのは朋子さんで、その背後から、白いTシャツとグレーのスウェットパンツを着せられた魔王がゆっくりとした足取りで現れた。
 実に気の抜けた、寝巻きに近いファッションである。徹頭徹尾魔王らしかった時と比べ、威圧感は緩和されたと言えよう。が、首から上はそのまま手付かずの為、なにやらビジュアル系バンドの控え室みたいになってしまった。
 チワワの震えは止まったが、今度は私が震える羽目になった。
 うつむき加減で笑いをこらえている私に、朋子さんがふふ、と微笑みかける。
「おかしいでしょ、ズボンの丈が寸足らずになっちゃって。うちの人も体格いい方だけど、最近の若い人は手足が長いから」
 そっかーズボンの丈かー。なるほどなー。
 同じ間違い探しを見ていたとしても、答えが同じとは限らないのである。そもそも最近の若い人という仕分けで合っているのか。
「カオリ、獣を余に引き渡せ」
 やたらラフな魔王が、ラフではない口調で私からチワワを取り上げた。イベントTシャツだったのか、胸元にプリントされた【わっしょい! いか祭り】 の文字が目に入り、余計呼吸が苦しくなった。そろそろ許して欲しい。
「三枝、これの名は」
「菊江」
「ほほうキクエか。くく、キクエめ潤んだ目をしおって」
 相変わらず魔王の顔つきは犬を愛でる好青年とはほど遠いものだったが、手加減を覚えたのか目が光ることもなく、先ほどより遥かにましだった。チワワの震えも携帯のマナーモード程度まで落ち着いた。いずれ粘り強く接して顔を覚えてもらえば、顔を舐めるくらいの歓待を受けるようになるかも知れない。道は長そうだが。
「犬見てえなら、いつでも来ていいぞ」
「だそうだぞカオリ」
「えっ、あ、私っすか」
「愚かにもそなたが、犬畜生と触れ合いたいと申すならばその時は余が供をしてやろう」
 光栄に思え、と魔王はわっしわっしと菊江を撫でながら告げた。魔王だというのにやり方がこすい。しかし裏切りを許さない魔王の眼差しは強く、私は参謀として「へい」と仰せのままに従った。

 働きが評価されたのか、帰りに魔王が私に持たせたプリンは二箱だった。この対価、安いと見るべきか高いと見るべきか、よくわからないがプリンはおいしいので嬉しかった。



    
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