5話目 / 洗濯の巻




 「カオリ、ドライ洗いとは何ぞ」

 よく晴れた日曜日だった。まだ朝の8時前だった。





 休日の醍醐味といえば惰眠である。
 いつもの時間に目覚め、そのまま飛び起きなくても良いと許された、心のゆとりと誰に対してかわからない優越感は人に安らぎを与える。その優雅な心持ち、もはや貴族と言っても過言ではない。おはようございます貴族です。
 祭りでもない限り日曜の朝は穏やかに幕を開ける。今朝も変わらず人と車の少なさを裏付けるような静けさで、枕元の目覚ましを横目に、ふ、と上流階級の笑みで貴族は二度寝に沈もうとしていた。が、無粋な音がそれを妨げた。民衆の一揆だ。いや呼び鈴だ。
 間の悪いことに、母は休日出勤、祖母は昨日から町内会の小旅行で留守にしている。対応するとしたらこの貴族しかいない。今朝の貴族は俗世と関わりとうないのである。
 布団から出るのが億劫で、一度は目を閉じてやり過ごしたのだが、インターホンは繰り返し鳴った。
 ピンポン。
 ピンポーン。
 ピーンポーン。
 連打の激しさはないものの、伺うように間を空けつつ、押し方に緩急をつけてくるあたり粘り強さを感じる。
 根負けし、重たいまぶたをこすりながら玄関に向かった。
 はいはいお待ちを、と着替えだけ済ませてドアを開けると、私が知る中で最も朝の爽やかさとそりの合わなそうな人が立っていた。魔王だ。
「おはようございます、どうしたんですか」
 魔王はそれに答えるどころか険しげな表情でかぶりを振り、さっさと扉を閉めた。ドアノブを掴んだままだった私は、さして高くもない鼻を強打するところだった。唐突な行動に呆気にとられていると、扉の向こうから少しくぐもった音が聞こえてきた。
「いま一度挽回の機会を与える」
 魔王の声である。続けてピンポンとインターホンが響いた。
 仕切り直しを要求されているのは確実だ。よくわからないが、何か気に障ることを仕出かしてしまったらしい。これまでの経験から、あまり礼儀に頓着しない人だと思っていたのだが、三枝さん宅での参謀呼ばわりから考えるに、魔王の中で私は隣人ではなくすでに手下の一人なのかも知れない。だとしたら先ほどの私の態度は好ましいものではなかっただろう。
 もっとこう、敬うべきか。魔王とその配下にふさわしい振る舞いを求められているのか。
 猶予は与えぬとばかりに再度インターホンが鳴ったので、私は武将に戦況を告げる伝令のごとく片膝をついた姿勢で恭しく魔王を出迎えた。
「ご機嫌麗しゅうございます、魔王様」
「違う」
「えっ」
「違う」
 違った。あげく何をしている膝を痛めるぞと冷静にたしなめられ、じりじり羞恥心が炙られる思いである。心の柔らかな部分が傷ついた気がした。
 魔王は出来の悪い弟子を見るにも似た目つきでマントを払いながら腕を組んだ。
「用心が足らぬと再三戒めているのにわからぬ奴よ」
 悪しき者か否かを改めもせず招き入れるなど愚かな、だとか、刺客であれば今頃八つ裂きぞ、だとか、物騒な文言を織り交ぜながら魔王はくどくどと説いた。
 魔王の防犯意識が高いことは今までの言動から充分知り得ている。対して我が家は、というよりこのあたりの世帯は総じて警戒心が緩く、注意を払えと事あるごとに魔王から忠言を賜っていたものの、年寄りの昔話と同列に流して聞いていた。それについて今現在、本格的に咎められているらしい。今回ばかりはうんうん頷くだけでは済まされないようだ。
「理解したのであれば元の配置につけ。次こそしくじるな」
 魔王はそう言って身を翻し、玄関から出て行った。そして即座に鳴り響くインターホン。あ、そこからまた始めるんですね?
 私は魔王の語る用心を心に留めつつドアノブに手を添えるだけにして、扉に向かって誰何(すいか)した。
「どちら様ですか」
「余だ」
「魔王さんですか」
「うむ」
「本当に魔王さんですか」
「嘘偽りない」
 そこで初めて私は施錠をとき、慎重にノブを回した。扉の向こうに見える魔王は未だ腕を組んだままで、沙汰を申し上げる奉行じみた厳格さが漂っていた。すっと手のひらが持ち上がり、大きく開く。ハイタッチを求めているように見えたので、出したり引っ込めたりと私の右手が迷走した。
「五点。なっておらぬ」
 単なる採点表示だったので何事もなかったように右手を撤退させた。さっき一度滑っているのにこれ以上の事故は避けたい。
「何度も確かめたし、かなり気をつけたつもりなんですけど」
「余としか名乗っておらぬにも関わらず決めつけるとは早計」
 一人称が「余」の知り合いなど他に見当たらないのだが。
「何より結界をはらぬなど愚の骨頂ぞ。禍を退けるは己の備え次第と肝に銘じよ」
 魔王の手が「結界」の部分でドアチェーンを掴んだ。
 ああこれ結界なのか……とぼんやり見ていたら「返事が聞こえぬ」と迫力の音声で凄まれてしまい、「ファイッ」と図らずも野球部の一年生みたいな受け答えになった。
 指導はそこで終わらず、ドアチェーンを含んだ総さらいと称して、来客対応の心構え(魔王推奨版)を、それから二度も繰り返した。当然魔王のピンポンから始まる。今日ほどインターホンが鳴った日は、後にも先にも例がないのではないだろうか。
 私はもうこの時点で若干ぐったりとしていたのだが、魔王にとっての本題ではなかったらしく、玄関口から去ろうとしない。訝しそうにしている私を遥か高みから見下ろし、魔王は改まった面持ちで冒頭の台詞を放ったのである。
「カオリ、ドライ洗いとは何ぞ」と。
 日曜の朝、人を叩き起して投げかける質問とは思えない。脱力した。しかし魔王はお構いなしに畳み掛ける。
「水を用いずに洗う術か。答えよ」
「いや水は使いますよ、ドライとはいっても」
「だが水は出ぬ」
「水が出ない?」 
 つい先日洗濯機を買った。設置は昨日の時点で済んでいたが、干すにはあまり天候が思わしくなかったので使わなかった。今日は打って変わって抜けるような青空に恵まれている。早速洗おうと洗濯機に近づいた時、ドライというコースが目に入った。興味本位で押してみたところ、水が全く出る様子がなく困惑している。
 以上が魔王の訴えの要約である。実際はもっと遠まわしかつ難解な言い回しの宝庫で、五回くらい聞き返した結果ようやく翻訳に成功した。
「洗濯機がない間はどうしてたんですか」
「それを生業にしている者に委ねていた」
「うわセレブ」
 すべてクリーニングとは不経済も甚だしい。日々の堅実な買い物とプリン25個のお取り寄せ悲劇なども合わせて考えると、魔王の金銭感覚はどこかアンバランスだ。
 それにしても水が出ないとはどういうことだろう。中古なら故障も考えられるが購入したのは新品だと聞いた。
「業者とかメーカーに問い合わせは?」
 と尋ねてから気がついた。まだ時計の針は8時を指すか指さないかという時間帯である。販売店にしても電話窓口にしても受け付けているわけがない。当然と言わんばかりに魔王は首を横に振った。しかし魔王の否定は私の想像と少し異なっていた。
「まず参謀に問うが順序として正しかろう」
「参謀って家電の面倒まで見るもんなんですか」
 実質ただの便利屋くらいの扱いと見た。
 初っ端の防犯訓練のせいで眠気はどこかへ消えたものの、寝癖はついたままだし朝食も食べていない。更に言うとセーターなどの取り扱いが面倒な衣類は祖母が引き受けてくれるので、私自身はジャージや寝巻きくらいしか洗濯機を使っておらず、ドライ洗いとやらについて正直明るくないのである。
 どう考えても私を頼るのはお門違いのような気がするのだが、魔王はじっと待っている。玄関を塞ぐようにして参謀がなんとかしてくれているのを待っている。プリンは二箱分、とうに腹におさめてしまった。義理と人情の合わせ技を前に、私が「NO」と退ける余地はなかった。
「役に立てるかわかりませんけど、ちょっと見てみましょうか……」
 魔王は口角を引き上げて(怖かった)さっさと来るがよい、と腹から声を出した。いつもは開けっ放しだが防犯の鬼の手前、鍵をしっかり締めてからついていくと、そなたにしては上出来よとお褒めの言葉を賜った。



 私なりに、魔王の住処に対してはイメージというものがあった。
 外観こそ何の変哲もないが、内側はさぞや縁起の悪い装飾が施され、日の入らぬ暗闇の中には燭台がずらりと並び、しゃれこうべのひとつでもあるだろうと。そこまで徹底していなくとも、絨毯やカーテンは最低、地獄の底のような色だろうと。
 しかしその認識は足を踏み入れて一歩目、もこもことしたスリッパを勧められた時点で改めなければならなかった。
 来客用の履物を用意するような家に、しゃれこうべはない。おどろおどろしい蝋燭もない。地獄の底どころかいくつもの窓から積極的に太陽光を取り入れるつくりになっており、言ってしまえばうちの物置の方がよほど暗いのである。カーテンも暗幕とはほど遠い、よく量販店に売られているような地味な格子柄だった。
 普通だ。目立った個性も主張もないが、居心地の悪さも感じない、それはさながら親戚の家。
 胸の内に少々ばかりあった「肝試し感」が早々に挫かれ、なんとなく肩すかしを喰らいながら魔王宅のリビングを通過した。
 前を行く魔王が急に足を止めて振り返る。
「嫁入り前の娘がのこのこ男の巣に上がり込むとはどういう了見か」
「えー」
 自らスリッパまで出して招き入れておいてそれはないだろう。それともこれすら防犯の講義の一環だというのか。
「じゃあもう帰ったほうが」
「余がそのような不埒な真似に及ぶわけがなかろう痴れ者が」
「ええー」
 どっちなんだよ! と心の中の山頂で叫ぶ私を顧みず、魔王は言いたいことだけ言って奥へと消えていった。残された私は言いたいことも言えず、孤独に帰ってくるやまびこを胸に黙って後を追うしかなかった。

 幸い魔王の洗濯機は我が家で使っているものと同じメーカーで、型式にも大きな差はなかった。とりあえずドライ洗いのボタンを押してみたものの、魔王の説明の通り水が出る様子はない。
 衣類を入れないと動作しない仕様かと思い、何か洗うものをと促すと、畳まれたTシャツを渡された。もしかしなくてもこれは三枝さん家で着せられた例のいか祭りTシャツ。
 あの後朋子さんに返そうとしたところ、あと二枚あるからあげるわとそのまま譲られ、魔王の私物になったらしい。一時凌ぎではなく、本格的にいか祭りが魔王のワードローブに加わってしまったかと思うと落ち着かない気持ちになる。こんな時どういう顔をすればいいのかわからないの。
 とにかく洗濯機攻略が先だ。いか祭りを洗濯槽に放り込み、再度ボタンを押したが状況は変わらない。蓋を閉めたり開けたりを繰り返しても水音が響くことはなかった。これほど頭を悩ませているというのに、水滴ひとつ落とす情けも見せず、全くもってドライな奴である。
「違うボタンは押してみました?」
「否」
「試してみていいですか?」
「許す」
 許されたらしいので、試しに標準コースを押してみた。が、結果は同じ。水は出なかった。ほかにも毛布やデニムや弱洗いと様々なコースが用意されており、その一つ一つを確かめてみたものの、やはり違いはなく、ドライコース以外でも敵は一貫してドライな態度を崩さなかった。いっそドライを通り越してクールと言ってもいい。困った。
「不良品かな」
「ぬ」
 呟いた瞬間、背後の気配に不穏なものが混じったのを感じた。安くない金を出して不良品をつかまされた日には誰でも憤るだろう。それがよりによって魔王に売りつけたとなれば命知らず以外の何者でもない。もし私がクレーム担当であれば相手の目が光った時点で土下座する。果たしてカラスでつつかれるくらいで許してもらえるかどうか。
 見知らぬ業者の末路を案じ、水〜水よ〜水よ来い〜と雨乞いの心境であちこち触っている内に、洗濯機の裏から伸びているホースにふと目が止まった。視線で辿らずとも、その先がどこに繋がっているのかくらい見当がつく。蛇口だ。
「…………もしかして蛇口、開けてないとか?」
「いかにも」
「そりゃ出ないよ!」
 蛇口を捻ると、これまでの沈黙を破るようにしてどっと水が出た。
 やった。やったぞ。
 子供の病が癒えたわけでも引退試合にホームランを打ったわけでもなく、単に洗濯機から水が出ただけの話なのだが、不思議なもので、私は滝のように溢れ出す水にしみじみとした感動を覚えていた。魔王も後ろで「おお……」と奇跡に立ち会った民衆みたいな感嘆を漏らしていたので恐らく似たような想いに駆られていたことだろう。朝からこの充実感。良い仕事をした。
 洗濯機はドライコース特有の静けさを保ちつつ、時折重々しい音を奏でて滞りなく働いている。この場に存在を許されているのは、動作音と水音、それからわずかな息遣いのみだ。
「あの、魔王さん」
「ん」
「見張ってなくても勝手に洗ってくれます」
「ほう」
 微動だにせず、息苦しいほどの眼差しでその動作を見つめていた魔王は、ようやく洗濯機の前から離れた。

 魔王宅の絨毯はふかふかである。スリッパの質感も似たようなものだし、そういえば犬に対しても魔王らしからぬはしゃぎっぷりであったし、さては毛足の長いものがお好みなのだろうか。
 朝から長居するのも失礼かと思い(その朝に襲撃しかけてきたのはほかならぬ魔王本人ではあるが)すぐにおいとまするつもりだったが、労いかもてなしか、魔王は私にソファに腰掛けることを許し、ご丁寧にカルピスまで与えた。驚くなかれ、コースター付きである。誰だしゃれこうべがあるとかないとか言っていた奴は。
 しゃれこうべの代わりと言ってはなんだが、通販のカタログがテーブルの片隅に積まれている。貼られたおびただしい数の付箋に、魔王に渦巻く物欲を見た。しかしそれも致し方のないことだ。近くにめぼしい店がないのだから。こちらから出向くのが難しいなら向こうから来てもらうほかないのである。
 一冊開かれたままのカタログが置かれていたので見るとは無しに見ると、家庭用流しそうめん器の頁だった。商品に添えられた「おひとりからでもお楽しみ頂けます」の文言にいささかの切なさを感じてしまう。
 家の主である魔王は私の向かいのソファに座って、先ほど発見した洗濯機の取扱説明書を並々ならぬ真剣さで読んでいる。巻末のQ&Aに【Q、水が出ません。A、蛇口を締めていませんか?】という心当たり率100%の例題が掲載されていたので、もっと早く目を通して頂ければ、恐らく私にお鉢が回ることはなかったと思われる。
 どうでもいいが間がもたない。魔王が読書に勤しんでいるからといって、これ幸いと心ゆくままくつろぐわけにもいかず、私はテレビのリモコンに手を伸ばした。リビングに据えられたテレビは、うちのものより大型だ。
「テレビつけてもいいですか」
「よかろう」
 電源を入れると、目のキラキラした絵柄の女の子が映った。日曜の朝によく見られる女児向けアニメだ。
 なんとなく見ていた私は、直後飲んでいたカルピスを噴きそうになった。
 ちょうどクライマックスを迎えたらしく、ラスボスと思われる敵がえげつないほどボコボコにされていた。敵の男は黒いベールを身にまとったわかりやすい悪役顔で、肌は白く長身だった。角も二本見えた。傷もあったかも知れない。既視感を覚えるキャラデザインである。それが年端もいかない娘たちによってたかって惨たらしく足蹴にされたり叩きつけられたりしていた。若さゆえの無慈悲か、ほうほうの体で逃げ出そうとしていた背中に必殺のなんちゃらアタック。ぐええと醜い悲鳴。更なる猛攻。
 一分も持たず私はチャンネルを変えた。
 恐る恐る伺った魔王の様子に別段変わった点はない。眉ひとつ動かさないところを見ると他人の空似で間違いなさそうだが、私を取り巻く気まずさときたら人生ランキングの上位に食い込むほどだった。今後あらゆるフィクションにおける悪役に対し、突き放した気持ちで鑑賞できる自信がない。
 無駄に冷や汗をかいたせいか、突如響いた警笛のような高音に大きく体が跳ねた。立ち上がった魔王が台所へ歩いて行ったのを見て、やかんの音だと遅れて気がついた。
 湯を沸かしたのは別に沸騰したお湯を私の頭にかける為とかではなく、コーヒーを飲むのだそうだ。私はすでにカルピスを頂いているので遠慮した。
 魔王はずいぶんと人に沿った暮らしぶりを送っている。もうこうなると本当は魔王の皮をかぶった留学生か何かではないかと疑いたくもなるのだが、普通留学生は飛ばない。しかし冷蔵庫に卵型のキッチンタイマーが貼られているのを見てしまったりすると、割り切るのが難しくなってしまうのである。そもそも私は魔王が魔術だか魔法だかを使っているのを見たことがない。
「あの」
 台所でインスタントコーヒーをかき混ぜている魔王を私は座ったまま振り返った。
「洗濯とか料理とか魔法使えば早いんじゃ」
 魔王は一度手を止め、それからまたかき混ぜる。
「浅はかな」
 そう言ってから、湯気を立てたマグカップを手に悠然とリビングへ足を向けた。歩みが遅い。
「世の理(ことわり)が違う。律に抗い無闇に行使するほど愚鈍に非ず」
「え、使えないんですか」
 期待はずれの気配が伝わってしまったか、やっとソファにたどり着いた魔王は眉をわずか持ち上げてから腰を下ろした。
「使えぬこともないが加減に手間取る」
 最初、魔力で煮込みをしようとしたところ鍋ごと焼けてなくなったと魔王は語った。すごいぞ火炎魔法。男の料理の枠を軽々超えるダイナミックさだ。人間でも力が強すぎると握手で相手の手を砕くと言うし、魔王ほどの存在ともなると繊細な調整は不得手なのかも知れない。
「じゃあスケールの大きい術の方が向いてるんですね。山を割るとか」
「甚大な魔力は相応の代償を伴うものぞ」
 代償の言葉に思わず息を飲むと、魔王はコーヒーを啜った。
「翌日の朝が堪える」
「二日酔いみたいですね」
 近所のお年寄り連中がよく口にするこの年になると次の日しんどくてよ、の台詞が脳裏をよぎった。語り口から深刻さを計るならば筋肉痛程度の負担のようだが、人ならざる力にもそれなりの枷があるらしい。
「魔法が使えたら勉強しなくていいかと思ったんですけど。英語とか苦手で」
 はは、と冗談めかして私が言えば、魔王は「カオリ」と言いながら静かにカップを置いた。
「かようなものを拠り所にして労を惜しむとろくな人間にならぬぞ」 
 真面目に諭されてしまった。ひれ伏したくなるほど正論で反論の余地もないのだが、それを述べているのが魔王だと思うと素直に頷いていいものか困惑した。
 ふと魔王の手がリモコンに伸びる。長い指がキーを押し、幾度もチャンネル切り替えた。その途中、画面が先ほどのアニメを映し「長い戦いの果て、ついに悪が滅ぶ時が来た! 次回・魔族の王死す!」と奇跡的なタイミングで流れた予告ナレーションのせいでまたもカルピスは逆流しかけた。可愛らしいアニメ声が視聴者に向かってぜったいみてね☆とお願いしてたが、申し訳ない、次回だけは絶対みない。
 魔王は至って涼しい顔で天気予報にチャンネルを合わせ、頷きながら今日の天候を確認している。私一人が無駄に冷や汗をかいて湿っているのみだ。人は焦るとヘマを踏む。なんとか空気を変えようと躍起になり、自分を見失った結果が次の発言である。
「魔王さんはおいくつなんですか」
 馴れ馴れしい上に脈絡がない。しかも相手の素性を考えると、魔王の存在そのものに相当踏み込んだ質問と言える。冷や汗は乾くどころか増えた。魔王は画面から目を離し、わずか首をかしげた。
「齢か」
「は、はい」
「そなたの節穴はどう見る」
 なんだこれは合コンか。
 不敬であると罵られるならまだしも、いくつに見える? の返しが来るとは想定外である。どう答えたらいいものか、私は連写のような速さで目を瞬かせた。
 接客の職を得て、去年の春上京した従姉妹の由美子姉さんはいつか云っていた。年齢を当てさせようとする相手は大抵若く見られたいものだと。あからさまに若く言っても嫌味に取られるから、実年齢より五歳くらい下の年齢を言うのが礼儀というものだと。
 そのセオリーを魔王に応用しようとして、二秒で思考が凍結した。
 実年齢、いくつだ。
 単純に顔貌だけ見れば26、7といったところだが、目の前の御仁は魔王である。見た目などという人間の価値観で判断を下して良いのだろうか。若く見えても魔族の長、魔力が老化をせき止めているだけで実際58才くらいのベテランかも知れない。いやしかしその体質を念頭を置いて考えれば、今年で1万2千才ですといった可能性だって大いにあるわけで、そうなるともう当たりのつけようがない。悩みに悩み、考えに考えたが、私の眉間が深く抉られるだけでひとつもまとまらず、結局迷宮入りした。
「見当もつきません……」
 絞り出すように言って、グラスに口をつける。ふむ、と同じくカップを持ち上げた魔王は、呼吸のついでくらいの調子で答えた。
「齢十五である」
 私は今度こそカルピスを噴いた。
「じゅ、じゅう、じゅうごっ」
 体を二つに折り畳みながらごほごほと咳き込む。息苦しいのは息苦しいが、それどころではない。まさかの年下。
 若く見られたいという由美子姉さんの助言が猛スピードで遠ざかり、そのまま星になって消えた。
「い、意外と……お……おお……おおお若い、ですね」
 そう言うのが精一杯だった。激しく動揺した私に魔王は怪訝な顔をして、冷淡にも見える視線を遣わした。
「卑しい人の子と並べて数えるでない。そなたらの齢の概念が余と重なるとは限らぬ」
「あ、そうか、なるほど」
 息が少し楽になった。
 そうだ、これだけ人の理から外れているのだから時の流れも特殊と考えるべきだろう。犬猫ならいざ知らず、魔王年齢を人間に換算すればいくつになるかなど誰も教えてくれはしないし、想像もつかない。いやしかしそれにしたって15。数字に意味はないとわかっていても15。波のように寄せては返す15の爪痕。
 気管に入ったカルピスの後味も消えぬうちに、洗濯の終わりを告げるアラームが鳴り響く。いそいそと立ち上がった魔王(15)にならって、私も洗濯機の元へと向かうことにした。衝撃の影響は大きく、咳はしばらく収まらなかった。
 
 後に気づいたことだが、何もいか祭りTシャツをドライ洗いにする必要はなかった。三枝さんが言うところのピアノカバーみたいな魔王のローブこそ丁寧で繊細なドライ向きだったなと風にはためく洗濯物を眺めながら思うのだった。





    
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