6話目 / お迎えの巻



 そういうつもりがあるなら、どうしてもっと早い段階で伝えて来ないのかと。なぜワンテンポ遅れて主張を始めるのかと。
 熱を出すたびに私は自分で自分の体調を問い詰めたくなる。今日も体温計を脇に挟みながらひとしきり保健室で詰った。

 疲労ではないだるさが体にのしかかり、頭がぼうっとしてきたのは確か三時間目が始まったあたり。測ってみれば熱は38度ちょうどだった。時期外れの流行か、教室では咳をしている生徒も少なくなく、風邪を引いたのは間違いない。だったらこんな半端な時間に後出しするのではなく、朝起きた時点で頭痛鼻水咳喉発熱を総出撃させるくらいの本気を見せて欲しい。そうしてくれたら私だって、わざわざバスに30分揺られて登校したりしなかったというのに。
 よほどしんどそうな顔をしていたのか早退の許可はすぐさま下りた。それはいいのだが自力で帰れる自信がなく、私は母に一報を入れて、生徒玄関で迎えが来るのを待つことにした。
 昼間だというのに、どこか薄暗くどんよりと見えるのは校舎の古さが理由の全てではない。単純に厚い雨雲に覆われているからだ。いかにも一雨来そうな気配だけは漂わせているのに、ただぐずぐずと横たわり空に蓋をするばかりで、このところすっきりとしない天気が続いている。思わしくない体調も併せて気が滅入った。
 そろそろ迎えが来てもいい頃だが、一向に母は現れない。仕事を中抜けすると言っていたから、業務をひと段落させるのに手間取っているのかも知れなかった。こんなことなら何も固い床の上でなく、保健室で横になって待っていれば良かったと悔やんでも、今は立つことすら億劫に感じる。膝を抱えたまま、携帯を取ろうと鞄に手を伸ばした時、視界が暗く陰った。私はのろのろと顔を上げ、しばし固まった。
 学び舎では通常有り得ない姿がそこにあったからである。
 夏も盛りのこの時期、そしておしゃれでなければ人に非ずという軟弱な風潮漂うこのご時世、べろりと裾まで黒く垂れ下がっているお召し物を羽織っているのは長ランを愛用する古き良き不良か、名前に魔のつく怪しいご職業の方くらいしか心当たりがない。この高校にも数人は生息すれども、そこまで根性の入ったヤンキーはいないので、該当するのは後者のみである。
 その者黒き衣を纏い、鼠色の歪んだ床板に降り立つべし。
 今日も我らが魔王様は引きずるほど長くたっぷりとしたローブを身に付け、私の視界を全て奪う形で仁王立ちしていた。
 熱に弱らされていた為か、一瞬それを魔王だと判断できなかった私は、死神の到来か何かだとナチュラルに受け止め、違う意味で「お迎えが来た」と思った。
 うまく私の中で繋がらなかったのである。魔王と校舎という場所が。おかげでしばらく、壊れたがま口財布のようにぱくぱくと口を開けたり閉めたりする羽目になった。

 魔王が私を呼び寄せたり訪ねてくる時は何らかのトラブルや頼みごとを抱えていると相場が決まっている。犬であったり洗濯機であったり。最近では炊き上がった米が硬すぎたとか、さおだけ屋がいつまで待っても来ないとか、そういう案件まで参謀に持ち込まれるようになってしまい、なんだかよくわからないが結構忙しい。世の参謀と呼ばれる職種の方々の苦労が忍ばれる。
 だから今この時も、魔王はこんな真顔で澄ましているが、もしかしたら私を頼らざる得ない状況なのだろうかと思い至った。
「もしかして迷子ですか」
「戯言を申すな」
 魔王は表情を動かすこともなく一蹴した。
 迷い込んだわけでもなければ、目的を持ってやって来たということになる。何の、と考える前に先日衝撃波をもたらした魔王の年齢を思い出した。
 ちなみにこの件は口外せず、私の胸の奥の、墓場まで持っていくゾーンに押し込んである。特に口止めされたわけでもないが、もし知れてしまったら、ただでさえ敬いに欠けた住人による魔王への扱いが、更に雑になるのではないかと憂いた故だ。「魔王さん」どころか「魔王くん」とか「魔王ちゃん」とか「魔の字」とか、あまつさえ「マオタン」などと魔王の家臣が耳にした日には憤死確定の安さで呼ばれかねない。今のところ魔王の家臣らしき存在はカラスくらいしか見当たらないが。
 とにかく魔王の年齢だけを人間の基準でとらえれば、通学していて当たり前の年頃。転入すると言い出しても、別段おかしくはないのだ。
 あ、いや嘘。おかしい。おかしくはないのだと断言した直後に何だが、やっぱりおかしいな。
 しかしいくら私がおかしいと連呼したところで、本人がオームのように目を赤く光らせ、余は目的の為に手段を選ばぬとか言い出してしまったら止める術も権利もない。学年も違うことだし。私にできることといえば、その背丈で後ろの席の生徒の視界を塞いでしまわないかと、ただ遠くから案じるくらいである。
 それにしても、魔王のぶらり高校生活。
 着るのか制服。
 受けるのか期末考査。
 効くのか学割。
 想像力はもう限界を迎えていた。
「せめて校内では、瀬野先輩と呼んでくださいね……」
「先程から幽鬼のごとき顔を晒して何をわけのわからぬことを」
 目の前を占拠する闇色の壁が動く。へたり込んだままの私を見下ろしながら一歩近づいた。
「こうして余が自ら回収に足を運んでやったのだ、有り難く思え」
 見上げた唇の隙間から牙が見える。放たれた台詞を要領よく咀嚼することができず、回収、とオウム返しで呟くと、魔王は厳かに相槌を打った。
「ゴミかなにかの話ですか」
「カオリ、いくら愚かとはいえ、己を屑などと卑下してはならぬ」
「く、屑? 私?」
 言ってないそんなこと言ってない。
 一体どういう会話のデッドボールだと魔王の読解力を疑いかけて、すぐに話が自分に及んでいることに気がついた。魔王が回収しに来たものとは、もしかしなくても私なのかと。
「あっ、あの、母は?」
 私のせわしない瞬きとは対照的に、魔王の長い睫毛はゆったり羽ばたく。
「峠で道を急ぐさなか、惨事に見舞われたと聞く」
「え! 事故!?」
 ざっと血の気が引き、携帯を乱暴にたぐり寄せると、着信を知らせるランプが点滅していた。渦中の母から、メールが一件。

【山道走ってたら鹿が突っ込んで北 迎えは誰かに頼んでオクからちょっと待って天竺】

 さすがに母も慌てていたのか誤った予測変換が入り乱れている。大きな事故ではなかったようなので、とりあえず胸を撫で下ろし、それから文面を二度見した。
 迎えは誰かに頼んで――つまりこの「誰か」が「魔王」だと理解するべきだろう。
 平日のこんな時間だ、頼れる相手は限られている。祖母は免許を持たないし、近所で親しくしているお年寄りの多くは、免許を持っていてもそろそろ運転自体が危ない。三枝さんの朋子さんなど、まだ50も半ばだというのに田畑やガードレールに年に一度は必ず突っ込んでいる。
 そう考えると、お隣というご縁とお付き合いのある魔王にお願いしたのは不自然な流れではないかも知れない。が、実際、迎えにやってきた魔王を目の当たりにすると、やや呆然とするものがある。すごい代打が来たな、と。それから、うちの母さん図々しくないか、と。
 魔王をパシリに使うとは、神経がしめ縄並みに太くなければできない所業だ。いよいよ魔王15歳は秘しておくべきと決意が固まった。
「すいませんお手数かけて……」
 弱々しい声で告げると魔王は目を眇めた。
「声まで蝕まれているではないか。死病を払い、延命にとりつかれた呪い師のもとへ赴くか」
「病院は今日午後から休診なんで」
 保険証も持っていないし、何よりとにかく横になりたい。幸い薬の買い置きはあるので、飲んでしばらく眠ればいくらか楽になるだろう。
 床に両手をつき、よろよろ腰を持ち上げかけたところで背後に声がした。
「瀬野、迎え来たか?」
 担任の後藤先生だった。授業を終えたばかりなのか、教材を片手に、ぺたぺたと体重の軽そうな音を立てて玄関のほうへと歩いてくる。こちらが何事か口を開く前に、どうしたって注目せざる得ないであろう黒い大きな物体に気がついた先生は、一度目をぱちくりとさせてから私の方を見た。
「えーと、ご家族の方?」
「違います」
 彼氏と誤解された時もなかなかどうして驚いたものだが、ご家族というのもまた味わい深い誤りである。ご家族にしては世界観が違いすぎるだろう、と思ってしまう私の器はやはり出来が小さいのだ。
 人類と魔族を分ける境界線なんてものは、実はこの世にはないのかも知れない。それぞれの先入観や価値観の歪みが線を引かせているだけに過ぎないのである。ノーボーダー、ノーモアウォー。いい話だ。
 おそらくだが、私はいま風邪のせいで正常な判断ができなくなっている。
「魔王さんはお隣さんです。母の代わりに私の迎えに」
「ああ、近所の人か」
 そう言ってから、ちょっと弱った風に後藤先生は下がり気味の眼鏡を押し上げた。
「うーんそうなると送迎の申請がな……」
「あ」
 車の騒音より蛙の合唱の方が遥かにやかましい田舎とはいえ、危うい年頃のうら若き男女を預かる場所である。風紀の乱れや防犯など、学校側も最低限の対策をとっており、送迎は事前に申請している保護者や関係者のみが許されている。早々に車の免許を取得した小ヤンキーが、浮かれて女子生徒を迎えに来るのを防ぐ狙いらしい。
「余では不服か」
 進み出た魔王が顎を少し持ち上げて、睨むにも似た目つきを放った。後藤先生が別段小柄というわけでもないのに、魔王と比べるとその差は歴然だ。この迫力に凄まれれば腰を抜かしそうなものだが、先生の態度は一般的な父兄への対応とそう変わりがなかった。
「いえ許可書がないと基本的に生徒をお任せできないんですよ。瀬野、お母さん来るんじゃなかったのか」
「途中で鹿と接触したみたいです」
「そりゃ災難だったな」
 後藤先生は考え込むように腕を組み、ちょうど通りがかった別の教師を見つけて駆け寄っていった。何やら特例で、魔王による送迎を今回に限り認めるか認めないかとを協議しているようだ。
「ほら特例ってあんまり頻繁に設けないほうがね」
「でも鹿と事故っちゃったんでしょ? 仕方なくない?」
「手の空いた教師が送るっていうのは」
「でも俺バイクだし、後藤先生はチャリ通勤じゃないっすかー」
 国語教師の池田先生は少しばかり若いこともあって妙にチャラいのである。言動がピンポン玉級に軽く、とっつきやすいので人気はあるが人望はない。
 ややしばらく、ああだこうだと言い合っていたようだが、話がまとまったのか、後藤先生が首だけで私と魔王を振り返った。
「自家用車での送迎っていう形でいいですよね?」
「異なことを。羽にきまっておろう」
「羽ェ?」
 素っ頓狂な声を出したのは池田先生だ。目を丸くして顔を向けたかと思えば、納得したように二度ほど大きく頷いた。
「あーあーそっかそっか、魔王系のヒトね」
 魔王系。すごい。軽い。ピンポン玉の真髄を見た思いがした。
 衰えているせいで声にならなかったものの、ついでに私も池田先生と同様の部分で驚いていた。羽ェ?
 忘れていたが羽である。魔王が人の乗り物などに頼るわけがない、一度目にしたあの黒い翼で羽ばたいて参じたのである。つまり、自動的に私も空経由で帰宅というコースを選択することになる。なるほど。熱が一度ほど上がった気がした。
「えー交通手段の項目、羽根……と。瀬野、これあとで保護者のハンコいるからな。大丈夫か顔色おかしいぞ」
「早く致せ。余の参謀が息絶える」
「参謀? 瀬野のことですか?」
「左様。右腕として召し上げてやった。誉であろう」
「なんだお前そういう進路に進むことにしたのか。先生聞いてないぞ。農協系狙いはやめたのか」
 当人置いてけぼりのやり取りが頭上で繰り広げられているのを、私はぼんやりと聞いた。口を挟みたい気持ちはあれど、あまりにしんどくて声を出す気力がわかない。あと農協は諦めてない。
 紆余曲折を経て、仮の申請許可書が無事取り交わされたらしい。魔王がペンを走らせた際、できれば日本語でお願いします等と書き直しを要求されていたので、何語でサインしたのか若干気になるところではあった。
「じゃあ、あとはよろしくお願いします。瀬野、気をつけて帰れよ」
「案ずるな眼鏡。この娘の始末は余が引き受ける」
 言葉だけ聞くと山中に遺棄されそうな響きである。
 よいしょと頼りなくも立ち上がって頭を下げると、眼鏡呼ばわりされた後藤先生は無理するなよと軽く手を振った。ピンポン玉こと池田先生は傍らで女子生徒にもらったクッキーをぼりぼり食っていた。

 風邪は確実に私の体力を奪っていく。上履きを脱ぐことすらおぼつかない。手際悪くも何とか履き替えたところで、魔王の手が私に向かって伸びて来るのが見えた。無遠慮に腰の辺りをつかんで持ち上げた思えば、魔王はそのままひょいと私を抱え込んだ。小脇に。
 パリジェンヌあたりがよくフランスパンをこんな感じで抱えていたような気がする。フランスパンはこういう気持ちなのかと初めて穀物に親近感を抱いた。
 抵抗の意思もなくされるがままに身をゆだねていると、何かが開くような物音といささかの風圧が私の肌に触れた。魔王の翼の支度が整ったのだ。
「参るぞ」
 一歩、魔王の足が外へと踏み出そうとしたまさにその時。ぐずついていた空がついに崩れ、雨粒を落とし始めた。しとしとと弱々しくも地面を打つ音がする。
 足を止めた魔王は私を抱えたまま動こうとせず、悠然と天を見上げていた。やがて美しくも冷徹なかんばせが私に向く形で下りる。魔王は言った。
「撤退やむなし」
 雄々しい羽根が音もなく閉じた。



 田舎のバスに利便性を求めてはいけない。一時間に一本走ればいい方で、30分に一本なら上等、下手すれば次に来るのは二時間半後という場合もある。
 通学に使うバスはスクールバスとしての役割も果たしている為、他の路線よりは恵まれているものの、最も利用客の多い朝と放課後を除いた時間帯となると、交通手段としては瀕死に近い。
 あれから私は30分ほどバスを待った。さすがに停留所で地蔵のようにじっと待つ根性は残っていなかったので、ぎりぎりまで玄関でうずくまって待った。魔王も一緒に待った。
「そなた一人ではあまりに心許ない、よかろう、命運を共にしてやる」
 というのが魔王の弁である。もう私もだいたい察しはついていた。魔王も自力で帰るに帰れなくなったということを。
 唐突な飛行の取りやめについて、魔力の流れがだとか大気を司るに相性がとか天の忌々しき横槍だとか、あのあと魔王は様々な理由を並べて小難しく語っていたが、つまるところ「雨水を含むと重くなって安定性やべえ」ということらしい。最近の携帯電話すらそれなりの防水機能を備えているというのに、魔王の羽よ、なんたる繊細さだ。その耐久性では紙飛行機とさほど変わらない。
 無情にも羽根がたたまれてしまった時、空路であろうが陸路であろうがいち早く帰りたかった私は魔王にすがったのだ。小脇に抱えられるフランスパン状態のまま、どうしても無理ですかと。すると魔王は死の契約を促すにも似た低い声で囁きこたえた。
「不可能ではない。だが安全面は保証せぬぞ」
 暗に墜落の可能性を匂わされ、地上に舞い降りた肉片になる己の姿を瞬間的に想像した私は、へい、バスで帰りましょうか旦那、と素直に時刻表を取り出したわけである。

 バスは予定時刻きっかりに停留所に滑り込んだ。古びた車体が水滴を纏い、てらてらと光る。
 羽に頼っていたのだから当たり前だが、魔王がバスに乗るのはこれが初めてのようだ。先に行かせた私の一挙一動を観察し、それに倣うように慎重な動作でバスへと乗り込んでくる。
 途中で「あ、」と気づいて振り返ったものの、もう遅い。

 カァーン

 魔王の長い角がバスの低い天井にぶつかって、乾いた音が車内に響いた。例えるなら木製バットのクリーンヒット。思いのほか良い音だった。
 痛かったのか痛くないのか、魔王の不動の表情からは読めない。ただ一瞬動作が止まったので、まったく痛覚がないわけではないのかも知れない。
 快音を響かせた魔王は慌てず騒がず、演奏を仕舞うトライアングル奏者のごとく、両手をおのおのの角にあて音色を止めた。代わりに甲高いブザー音が鳴り響いて、バスのドアはつつがなく閉じた。

 中途半端な時刻のせいか、車内に乗客の姿はない。魔王と私、二人だけを乗せて、バスは雨を跳ね返しながら走り出した。
 染み付いた習慣というものは恐ろしいもので、歩くのもふらふらと危ういのだから、乗り口すぐの座席を選べば良いものを、私はいつも通り二人がけの後部座席に吸い込まれるように腰を下ろした。
 背もたれに全身を預けると、どっと気が緩む。一息つく心地と、疲労の蛇口が開く感覚の両方が入り混じり、知らず溜息を吐いた。
 降りるまで少し眠ろう。そう思って私が目を閉じようとした寸前、黒いベールが視界の端を横切った。間を置かずして座席が軋んで跳ねる。首をひねって確かめるまでもなかった。

 なぜ。
 全ての座席が空いているこの貸切状態の中、なぜ、わざわざ、隣に座る。

 特に深い意味はないのはわかっている。初めて乗ったバスの作法を知るために、私の真似をしているだけなのだろう。見ず知らずの他人というわけではないのだから、お互い妙に離れた席に座るのもまた不自然ではある。
 だからそれについては構わない。不快と感じる要素もない。ただ、純粋に狭い。
 魔王は決してふくよかではなく、むしろ無駄なものを感じさせない体つきをしているが、いかんせん縦に長い分、骨格もそれなりである。二人がけとは言ってもそうゆったりとした座席ではないので、大型の魔王がどっしりと構えるとかなり幅をとられる。事実、私の半身を若干潰し気味だ。ローブの一部が暖簾みたいにそよそよと顔面に触れてくるのも落ち着かない。
 もう少し向こうに寄って頂けませんかのう。
 抗議の意味を込めて肘でやんわりつついてみるも、やんわり過ぎて伝わらなかった。気力を振り絞り体重をかけて押しやると、さすがに気がついたか、身じろぎした魔王が私を覗き込んできた。そのまま体をずらしてくれるかと思いきや、魔王の手はするすると伸びて私の鼻を掴んだ。
「やはり湿り気を感じぬ。そなたらは優れぬと鼻が乾くのであろう」
 それは犬だ。
 私が誤りを解くのを待たず、立ち上がった魔王が運転席へと言い放った。
「御者! なにをちんたらしている、死力を尽くして駆けよ!」
「うわっちょっやめてください」
 いっとき熱が吹き飛び、私は魔王をローブごと引きずりおろして席に戻した。翼を持たない私はこれからもこのバスに乗り続けねばならないのである。運転手同士の話のネタにされるのは避けたいのである。
 幸い運転手は、ごめんね〜定刻通り走るのが仕事だからね〜と軽く受け流してくれるような気さくな人だったので命拾いをした。
 一応引きずり下ろした後、魔王に説明はしたつもりだが、心身ともに余裕がない為か極端に語彙が減り「にんげん、鼻、関係ない、だいじょぶ、私、死なない」と来日2年目くらいの片言を繰り返してしまったので、きちんと理解してもらえたかどうかはあまり自信がない。

 車内の喧騒をよそに、雨に濡れた風景が車窓を通り過ぎていく。
 バスに揺られている内、節々が痛むようになってきた。私の体力はどんどんと減りつつある。ゲージで表したなら相当赤い。
 隣にいるのが白い魔法使いならば回復の呪文でも諳んじてもらいたいところだが、あいにくどう見ても癒すより削ぐジャンルの方に造形が深そうだ。身内でもない相手を迎えに来てくれただけで御の字なのだから、これ以上の要求はすまい。
 私はわずかでもと涼を求めて窓に頬を当てた。この季節ではガラスの冷たさなどたかが知れているが、それでも茹だった肌にはひやりと心地よかった。これなら眠れる。
「カオリ、あれは」
 瞼を持ち上げると、魔王が外に向かって窓ガラスを割らんばかりに指をさしていた。その先に小さなプレハブの店舗が見える。
「……ああ、たい焼き屋です」
「たい焼き」
「中に餡子とかクリームが入ってるおやつです」
「ではあの店もか」
「いやあれはおやき屋。中に餡子とかクリームが入ってるおやつです」
「同じではないか」
「違いますよ形とか」
「ほう、ではあれも」
「あれはコイン精米所」
「それは何か」
 眠れぬ。
 普段高みから見下ろしている分、バスや車の目線での移動が新鮮なのだろうか。物珍しそうな魔王の素朴な問いは続き、なかなか瞼を下ろす機会は訪れない。
 その内、魔王の関心は外界から逸れ、バスの車内の方へと戻っていった。吊り革の用途に首をひねってみたり、案内のアナウンスにいちいち「うむ」と律儀に頷いていたり、ひと睨みで蠅が滅しそうなご面相の割に好奇心は無限大である。ひとしきり観察して満足したのか、ようやく魔王の動向も落ち着いてきた。すでに眠るのは諦めかけていたが、やはり体のだるさには勝てず、私はぐにゃりと窓側にもたれかかった。
 大人しくなったはずの隣から蠢く気配がする。見るとはなしに見れば、魔王の目線が私の頭上に注がれていた。そこにあるのは、古ぼけた紫色の下車を知らせるボタン。
「何の装置か」
「……次のバス停で降りますっていうのを運転手さんに知らせるボタンです。でも私達が降りるのはまだ先だから、」

 ピンポーン

 押しちゃったよ。
 繰り返すようだが、乗客は他に誰もいない。私達のみである。普段ならばいざ知らず、今の健康状態で正直に次のバス停で降り、家まで歩くのは苦行に近い。途中で行き倒れる未来予想図が脳裏に広がるばかり。
「なんでフライング気味に押しちゃうんです……」
「誘惑に抗うことかなわず。この魔王をたぶらかすとは敵もさるもの」
 ニヒルな笑みを浮かべる魔王に対し、私には相槌を打つ気力もない。押したくなる気持ちもわかるが、なぜあと少し辛抱できなかったのか。
 こうしている間に次の停留所は近づいてくる。すいません間違えましたと言うのは易いが、運転手に聞こえるようにと声を張るのは今の私にはかなり厳しい。後始末はよろしくと隣の黒い裾を引くと、魔王は任せておけとばかりに力強く頷き、再び立ち上がった。
「今のは敵軍による攪乱である。御者よ、惑わされず己が道を行け」
 魔王による号令が響き渡った直後、私たちの意思に反してバスは停車し、開いた乗り口から、年老いた女性がひとり乗車してきた。しんと静まり返った車内を婦人がゆっくりと進み、時間をかけて座席に腰を下ろす。それを見届けるようにして魔王も静かに座った。私は寝たフリを決め込み、固く目を閉じてやり過ごした。


 降りるときになって魔王が財布を持たずに来たことが判明し、バス賃を私が立て替えるなどのひと悶着はあったものの、うっかり寝過ごすこともなく、ボタンを再びフライングすることもなく、最寄りのバス停で無事下車することができた。
 もともと弱かった雨足は更に控えめなものになり、傘を必要としない程度まで回復している。
 ここから歩けば五分ほどで我が家だ。
 それだけを支えに私は重たい体に鞭打って歩き始めた。当然颯爽とした足取りとは言い難い。機敏と対極にある魔王の歩みにすら遅れをとってしまうほどだ。歯がゆさを覚えてか三歩先の魔王が私を振り返る。
「飛ぶか」
 申し出に飛びつきそうになったところに、冷たい雨粒が落ちてきた。
「いや……雨が強くなるかも知れないし」
「ならば抱えるまで。そなたに合わせては日が暮れる」
 魔王はのしのしと私に向かって歩いてきた。またフランスパン方式だろうと思い、持ち上げられるのをぼうっと立ち尽くして待っていたら、いつまで経っても魔王の手はやって来ない。よく見ると魔王が腰をかがめて背中をこちらに向けていた。
「どこからでも来るがいい」
 いつもの私ならば、ぎょっとして後ずさるくらいのことはしただろう。魔王のおんぶである。レアさでいけば五つ星評価は堅い。
 が、弱っている現在、運んでくれるならば魔王であろうが法王であろうが、遠慮も抵抗も芽生える余地はなかった。布団に飛び込むのとさして変わらぬ勢いで私は魔王の背中を借りた。
 校舎にて苦もなく小脇に抱え込んだことから知れるように、腕力もまた魔王は並外れているらしい。私一人の重みなど塵に等しいのか、常と変わらぬ威厳と速度を保って魔王は歩いていく。最初こそ、どこにつかまればよいかと手がさまよったが、しがみつく場所を見つけてからは背中であることを忘れるほどの安定感に包まれた。ゆりかごのような心地よい振動が全身に伝わる。いつしかそれは睡魔となって、私の瞼を優しく撫で始めた。
「カオリ」
 うとうとと溶けゆく意識に低音が混じる。
「それは手すりではない」
「……おお」
 角だった。
 とても自然な形で、私の手は角をつかんでいた。
 朦朧としている中、ちょうど良いところに手すりがあると思ってしがみついていたのだが、バリアフリー設計でもあるまいし、魔王に手すりなどついているわけがなかった。
 角か。そうか角だったのか。道理で握りやすいはずだ。
「今日だけ……手すりに鞍替えして……もらえませんか……」
 「眠い」と「しんどい」が許容量を超え、もう自分が何を言っているのかわからない。角を手放すまいという常ならぬ意思の強さも、どこから来るのか謎といえば謎である。病は篤い。
 魔王は「む」とか「ぬ」とか一言呻いてから「情に訴えるとは巧妙なやり口」などとぶつぶつ漏らしていたようだが、もうそのあたりから私は半分眠気に沈んでいたので、あまりよく聞いていなかった。ただ、ドライ洗いによる成果だろうか、顔をうずめた魔王のローブの肌触りが悪くなかったことは覚えている。

 居間の鴨居に真新しい傷があるのを発見したのは、熱も引いたあくる日のことである。
 あのあと魔王は私を送り届け、非力な祖母の代わりに家の中まで運んでくれたのだという。そしてその途中で角が派手に衝突したのだという。
 祖母はしみじみと語った。カアーンとよく乾いた、甲子園みたいな爽やかな音色だった、と。



    
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