閑話 / 魔王と雨
 


 長雨である。
 雨雲がどっしりと腰を据えてしまったらしく、昼夜問わず、時に霧のごとく細く、時に嵐のように激しく地を打ち、太陽が顔を出す暇もない。
 天の恵みとはいえど、過ぎたるは及ばざるがごとし。同じ天候が幾日も続けば頭痛の種は増えるものだ。例えば作物の出来だとか、河川の増水だとか、洗濯物の始末だとか。
 いずれも悩ましい問題だが、このところの私の気がかりはそのどれでもなかった。長期的な雨が阻むもの、それは魔王の買い出しである。

 背を飾る禍々しい羽根がその威風に反して雨水に弱いと知れたのは、私が風邪につけこまれた先日のことだ。飛行を断念せざる得なかったあの日から、雨はずるずると続いている。
 スーパーの袋をぶら下げ羽ばたく魔王の姿は、これまで何度も目にしてきたものの、思い返してみればいずれも青空も眩しい晴れの日ばかりだった。あれは偶然そうだったわけではなく、むしろ天候に左右されていたと考えるべきだったのだろう。道理で雨天時にあまり魔王の姿を見かけないと思っていた。外出叶わず、引きこもっていたわけだ。エコは地球に優しい分だけ己に厳しく、不便と隣り合わせである。
 それにしても飽きずによく降る。さほど雨量の多い地域ではないので、こうまで続くのは珍しい。魔王が越してきてからは初めての長雨になる。
 魔王の備蓄は、大丈夫なのだろうか。
 様子を見るに独り身のようであるし、一度にどっさりと買い込む形ならばそう困ることもないだろうが、どちらかといえば、折込チラシのお買得品を中心に購入するというこまめな買い出しスタイルである。そろそろ食料が底をついてきたのではないか。最低、米と塩さえあれば食いつなぐことは出来るとしても、あまりにわびしい。せめていつものように野菜でもおすそ分けできければ良いのだが、このところの悪天候で育ちが思わしくないのである。
 送り届けてもらったお礼に、祖母お手製のおはぎを持っていったのは確か五日前。以来、魔王の姿を見ていない。
 い……生きてますよね?
 縁起でもない考えを巡らしつつ雨模様の窓を見ていると、インターホンが鳴った。
 もしや、とつま先を立ててドアの覗き穴を伺えば、私の中で生存が危ぶまれたその人の姿がある。祝・ご存命。
 ひとまず安心し、ドアを一気に開けそうになったものの、直前でこらえて施錠をし、ドアチェーンを施した。来客の正体が知れてから扉を固く閉ざすのも本末転倒な話だが、魔王は時々抜き打ちチェックにやって来るのである。そこで無防備に迎え入れようものなら、防犯の鬼が降臨し、訓練が再スタートを切ってしまうので下手な前科者よりも警戒して当たらなければならない。私は受験にも似た気持ちで、慎重に、粘り強く、セキュリティレベル最大で臨んだ。
「そなたもようやく心得てきたな」
「おかげさまで」
 及第点を頂けたらしく、ドアを開けた先に立つ魔王は満足げに口角を上げていた。その立ち姿は常と変わらず威圧的で、うらぶれた影もなく、面やつれするでもなく、餓えに苦しむ様子は見えない。が、その手には何故か一本の空き瓶が。
「わざわざ余がこのようなあばら家に出向いたのは他でもない」
「はあ」
「そなたの忠誠の証として、余に醤油を5匙ほど納めよ」
 魔王宅の醤油、切れる! 
 速報が流れた。主に私の中で。
 目の前に突き出された瓶に、持ちこたえられなかったか……と肩を落とす思いと、やっぱりな……という納得の感情が交錯する。
 果たして醤油が切れたのはいつのことだったのだろう。今さっきならばまだしも、数日前からこの状況に置かれていたならこんな悲しいことはない。醤油すら底をつくなら、味噌も恐らく残量わずかと見た。
 醤油もねえ、味噌もねえ、出前とるにも店がねえ、の三重苦の中、不便を強いられている魔王に食料をお届けする気の利く配下はいないのか。と、そこまで考えたところで、あれ私がその位置なんですかね、と気づいてしまい、行き場のない半笑いになった。
 魔王にはなんだかんだとお世話になっている。瓶を受け取った私はそのまま台所に向かい、手下として使命感ではなく、あくまでお隣さんの好意として、減塩醤油1リットルを一本引っ張り出した。
「5匙じゃ数日も持たないんで、これ使ってください」
 未開封の醤油を前にして、魔王は珍しくたじろいだ顔を見せた。
「あ、うち買い置きいっぱいあるから大丈夫です」
 事実である。たまに母は何を血迷ったか、箱で買ってきてしまったりするので、一本や二本惜しくはない。 
「カオリ……そなたの忠義、よもやここまでとは。重く受け止めようぞ」
「普通に受け取ってください普通に。醤油として」
 魔王は両手で仰々しく醤油を受け取り、器用にローブの袖の中へと隠した。味噌はあるかと尋ねると、味噌はまだあるが、味噌汁にする具がないという涙を誘う答えが返ってきたので乾燥わかめと油揚げ、それから冷凍食品やインスタントラーメンを袋につめて渡した。上京した子供にやたら食品を箱詰めして送る親御さんの気持ちが、今なら少しわかるような気がした。ちなみに買い置きしておいた食パンはカビに侵食されて全滅したという。食パンは冷凍した方がいいという私の忠告に対して、「時すでに遅し」とこぼした魔王の憂いの横顔は悲しいものがあった。
「早く晴れるといいですね……」
 外はまだ小雨がしょぼしょぼと降っている。長引く雨に頭を悩ませるのは魔王ばかりではない。かくいう私もこの蒸し暑さとしつこい雨雲にはそろそろうんざりしている。どこもじめじめとしているせいか、いくら乾かしても靴は水浸しになるし、と靴箱まで視線を下げた時、それが目に入った。
「魔王さん、羽根に防水スプレーかけてみます……?」
 ぴんと来ないのか、魔王は不審そうな目つきで私が手にしたスプレー缶を見遣った。私はあえて口で説明せず、手品師よろしく大げさな動作でスプレーと母の革靴を交互に魔王の目の前に突き出し、よく振ったスプレーを革靴に噴射した。雨に濡らせば、当然のように玉となって弾く。
「……!?」
 魔王は瞠目した。靴の上を真珠のように滑り落ちていく雨水を驚愕の表情で見つめたかと思えば、奇跡を見た信徒のようにスプレー缶に見入っている。別に私が開発に携わったわけでもないが、妙に得意げな気分になった。見たか人類の英知。
「カオリ、余に施すことを許すっ」
 声自体は充分落ち着き払ったものだったが、惜しい。語尾の「っ」に隠しきれない興奮が現れている。
 いつ広げたものか、耐水性に欠けると噂の黒々しい羽根が魔王の背中に伸び、さあやれすぐやれとばかりにこちらを向いていた。スプレーを振ってかけて、振ってかけて、時々むせて、を繰り返し、まんべんなく噴きかけ終わると、羽を広げた魔王はゆっくりと試すような足取りで玄関から出て行った。が、広げた羽根が扉に引っかかったので、一旦後退し、真顔のまま蟹のように横歩きで行った。
 正直、革製品用が同様の威力を発揮するものか疑わしかったのだが、ほどなく玄関の向こう側から聞こえてきた「ものともせず…っ」という感極まったような小声から察するに、効果に変わりはなかったようである。様子を伺おうと玄関から顔を出すと、小雨に濡れる魔王の姿があった。ばっさばっさと無駄に羽を動かし、水滴をばらまいている。水浴びしたあとの犬を彷彿とさせた。
「土砂降りはさすがに無理ですけど、この程度なら大丈夫ですね」
「うむ、まるで寄せ付けぬ」
 魔王の羽ばたきはなかなかの風圧で、私の前髪が一本残らず巻き上がる。
「余の参謀としてふさわしい働きである。褒章を与えてやらぬこともない」
 顎に手を這わせ、魔王は大きく頷いた。
「踏み入れる者を死に至らしめる呪われし毒の領地の一部をそなたに」
「お気遣い無く!」
 ハッピーな要素がひとつもない土地を頂いても手に余る。
 首を猛然と振って辞退すると、クク無欲な奴よ、と笑みを浮かべた魔王は一層羽を忙しなく動かした。突風。息が出来ない。
「カオリ、ご苦労であった。長らく舐めた苦渋も今日限りよ」
 いざ敵陣! とばかりに、魔王は勢いよく離陸した。雨を前に翼をたたんでいたのが嘘のような威勢である。飛び去った先は、恐らく街で唯一のスーパーマーケット。
 弾丸のごとく天空に消えていった魔王に、私は伝えることができなかった。だが伝えるべきであった。拡声器を用いてでも伝えるべきであった。
 今日は棚卸しで、サンダースは休業である。

 戦果なく帰還を遂げた魔王に、私はせめてもの慰めと我が家の献立の肉豆腐を届け、下僕として忠義を示すのであった。


    
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