8話目 / 夜道の巻 |
パチ、と確かな手応えのスイッチ音とは裏腹に電灯に反応はなかった。 まあ気を抜いていたということもあるだろう、早くしたまえ、と紳士の精神で十秒ほど待ってやったが、いつまで経ってもトイレに灯りはつくことはなかった。 電球は夜に限って切れる。 それもとっぷりと日が暮れてから切れる。 これまでずっと、必要な時にこそ電球が切れるのは何故なんだと憤りつつも不思議に思っていたのだが、よくよく考えてみれば昼間殉職していたとしても気づくわけがないので、夜に判明するのは当たり前といえば当たり前なのだった。 ということで、私はいま夜に沈みきった田舎道を自転車で疾走している。 翌日まで辛抱できないこともないが、私や母ならともかく、祖母が転んで怪我でもしたらそれこそ大事だ。懐中電灯を用意したところで照らせる範囲は限られており、足元が頼りないのは変わらない。床にクッションを敷くなど、およそ名案と言い難い意見が出たものの、替えを買いに走ったほうがずっと建設的だろうとコンビニに向かった。 家から自転車で20分。かっとばせば15分。途中、短いながらも勾配のきつい坂道があり、下りになる往路は軽やかなばかりだが復路は若い力が試される。 すぐそこ、と言える距離ではないかもしれないけれど、夜6時を待たずにシャッターを下ろしてしまう個人商店や、車で数十分走らねばならない隣町のコンビニを頼らざる得なかった以前を思えば、充分身近でありがたい。こうして急な不便にも応えてくれるのだから。それに引きかえ、と思わず目が遠くなる。 あれだけいろいろと買い込んでおきながら、電球や蛍光灯の予備はないという母の買い置きセンスについて問い質したい。めんつゆ3本買ってる場合じゃないよ。大豆缶1ダースってなんの仕入れだ。 電球のついでに豆大福を買うくらいのご褒美はきっと許されるだろう。 夏をたっぷり含んだ風は夜といえども涼しさはなく、人肌のように生温い。坂道をのぼりきった汗ばんだ肌を撫でても、心地よさには至らなかった。私は息を切らしながらペダルを踏み続けた。 深夜というほどの時間でもないのに、人はおろか、車もろくに通らない。 田舎の夜道は暗い。 それなりに住宅がひしめいていれば家の灯りや街灯が夜の濃さを和らげてくれるが、一旦田畑が連なる区画に入るとそれらは極端に減り、星だの月だのの明かりに頼らねばならないという字面だけはロマンチックな道のりが待っている。ただ今夜は、薄い雲がべたりと空にはりついてどちらも望めそうもなかった。自転車のライトが先を照らす唯一の拠り所となる。 走れども走れども、夜道に溢れかえるのはわんわんと響くカエルの鳴き声。どこからともつかないくらいに大音量が生温かい空気を震わせている。 一帯が水田ということもあり今は耳に騒がしいほどだが、それは夏に限った話で、冬になれば一転、雪が音を吸い込んで静けさに凍りつく。以前、泊まりに来た都会暮らしの親戚が「自分以外みんな死んだのかと思った」とのたまったほどだ。 さすがにそれは言い過ぎと思うが、そう言いたくなるくらい人の気配が薄いというのは理解できる。眩しくもネオン輝く都会と違い、この町は眠りにつくのが早い。厚くて重い帳がおりると、いかにカエルの声が響く賑やかな夜であっても、人が介入できる時間ではないような気がする。 ほら、夜になったら這いずりさんが出るよ。 こんな時に、いやこんな時だからこそなのか。忘れかけていた声が脳裏に甦る。 今でこそゴールデンタイムのテレビを見ながら眠りこけてしまう私であるが、子供の頃は宵っ張りで寝かしつけようとする母の手をずいぶん焼かせていたらしい。夜が更けてもなかなか布団に入ろうとしなかった私に、祖母は滅多に見せない険しい顔でこう言い聞かせた。 夏織、早く寝ないと這いずりさんが出るよ。這いずりさんは寝ない子を見つけて田んぼに引きずり込むんだよ。いいのかい? 私は震え上がり、潜り込んだ布団の中で亀のようになって寝たという。 這いずりさんとはこの土地に由来する妖怪でもなんでもなく、祖母がその場で作った完全オリジナルの産物にすぎない。祖母にとっては単なる出まかせだったのだろうが、思わぬ効き目に悪乗りした母が「水田から夜な夜な這いずり出てくる」とか「鬼火とともに現れる」とか「主食はセミ」とか次から次へと恐ろしげな設定を追加し、使い捨てに終わるはずだった這いずりさんは、結果瀬野家で最もメジャーな化物として地位を確立した。 芯から怯えていた私に這いずりさんの効果は絶大で、ことあるごとに脅されたものだ。嘘をつく子には這いずりさんが来る、いたずらをすれば這いずりさんが来る、つまみ食いしても這いずりさんが来る、とにかく何をしても這いずりさんが来るのだ。出前だってこんなに簡単には来てくれない。這いずりさん、実に仕事熱心である。 もちろん私もいつまでも子供ではないから、ただの作り話だとその内に気がついた。 が、罪深きかな幼少期の刷り込み。架空だと判明したところで、キャラとして立ち過ぎた這いずりさんの存在感が煙のように消えるわけはなく、幼い心を長らく脅かし続けた。地獄の閻魔様や歯医者などの強敵らを押さえ、揺るぎない恐怖の対象として堂々と私の中に君臨していたのである。 しかしそれも中学に上がる少し前までのこと。成長するにつれて這いずりさんによる脅威は次第に薄くなり、今や他愛のない昔話として風化しつつあった……はずだった。 慎ましい風に煽られて草木がざわめく。 手に湿ったものを感じ、私はハンドルを握り直した。 這いずりさんなんていない。這いずりさんは作り物。 言い聞かせながら、さっきより強くペダルを踏むと顔に当たる風が強くなった。家へたどり着くにはまだ距離があり、横たわる暗闇の遥か先は安っぽいライトの光では届かない。普段なら気にも留めない葉の擦れる音や自分の息遣いが今はやけに耳についた。早く帰りたい。タイヤの回転する速度が知らず知らずに増していく。 ――夜に寝ないような悪い子には這いずりさんが、 悪い子じゃないです私はおつかいを引き受けたいい子です。 かすかに、闇の向こうで水音がした。 ――這いずりさんは夜な夜な田んぼから、 今のは違うから! かわず飛び込む水の音だから! 一度意識がそちらに向くと、坂道を転げ落ちるように悪い方悪い方へと想像が働く。私を取り囲む夜の全てが得体の知れない何かに思えて背中が寒くなった。 は……鼻歌でも歌おうかな! 臆病風に吹かれると、人間なぜか歌いだす。とってつけたような陽気さで内なる弱腰を誤魔化したいのだ。しかし咄嗟に奏でてしまったのが何故か縁もゆかりも思い入れもないアメリカ国歌だったため、あえなく2フレーズで途切れて消えた。 失策である。気が晴れるどころか心細さが三割増しになった。 ぴちゃん。 再び水音が私の耳をかすったものの、視線を向けようという気は起きなかった。 いるわけがない。見えるわけがない。そこから首を出して腕を出して今にも身を乗り出そうとなんてしているわけがない。ましてや引きずり込もうなんて。 膨らむ嫌な想像を振り払うように、私は力の限り自転車を漕いだ。滅びよ我がイマジネーション。こめかみに流れる汗が、暑さによるものかそれ以外で吹き出したものかもう私にはわからなかった。 いつもなら速度を緩めるカーブも、今はブレーキに手をかける暇すら惜しい。勢いそのままハンドルだけで乱暴に曲がる。と、黒いばかりの視界に光るものが飛び込んできた。 民家の灯りとも違う、人工的な輝きよりももっと不安定な。宙に浮くようにしてそれはゆらゆらと燃えていた。 ――這いずりさんは鬼火とともに、 「ギャー!」 咄嗟に握ったブレーキは車輪に極端な負荷をかけ、自転車を転倒させた。当然跨っていた私も放り出される形になったが、混乱の極みにあったせいなのか秘められた野生が目覚めたのか、忍者のように身を守りながら回転し、片膝をつく姿勢で綺麗に着地を決めた。完璧だ。誰も見てないのが惜しいくらい華麗な身のこなしだった。ちょっとかっこいい。いや今そんなことはどうでもいい。 鬼火が。さっき、確かに鬼火のようものがゆらゆらと。 そんなわけがない。そんなもの見えては困るのだ。きっと目の錯覚だ、怖がるあまりにバイクのライトでも見間違えたに違いない。そう自分を鼓舞し恐る恐る視線をあげてみると、幻覚でも錯覚でもなくはっきりとそれは見えた。数メートル先の闇の中、火の玉が揺れながら空気を食んでいた。 「ギャー!」 華麗な身のこなしの奇跡は一度きりだったようで、私は不格好にもその場に尻餅をついた。ギャー以外にもノーだとかワーだとか様々な悲鳴を上げていたような気がするが呼吸すらまともにまともに出来ていない有様なのでカエルの声にも劣る。それでも誰か聞きつけて助けに来てはくれないかと期待したが、そもそもこのあたりに民家などなかった。そして鬼火が気を遣って出直してくれる気配もなかった。むしろ、だんだんと、こちらに、近づいているような。 「ギャー!」 立って逃げようにもまともに力が入らない。そのまま海老のようにずるずると後ずさる。 ごめんなさいごめんなさい。ほんとうにすいませんでした。豆大福は家族でわけます。 何に対して謝っているのか自分でもわからないが、もう詫びて許しを乞う道くらいしか私には残されていない。その愚かさを嘲笑うがごとく、鬼火はゆっくりと距離を詰めてきた。ずるりずるりと地を這うような音を引き連れて。 這いずりさんは寝ない子を田んぼに引きずり込むんだよ。 冷や汗の先端まで凍りつく心地がした。 「夜更けに何を騒いでいる」 鬼火の炎に、見慣れた白い面が浮かび上がった。 「ギャー!!」 私は久しぶりに泣いた。安堵したせいではない。圧倒的に顔が怖かったのである。 「夜回り、ですか……」 「ヤマモトなる者が伴をするはずであったが腰を患ったゆえ」 余が単身でこの地を守護しておる、と魔王は答えながら、涙と鼻水によってぐずぐずに濡れた私の顔をローブで拭った。その手つきは拭くというよりもシャツに飛んだソース汚れを落とすに近く、若干肌に痛い。 もはや言うまでもないが、夜道に現れた白い顔は魔王である。そして私の腰を抜かした鬼火の正体は、果たして魔王が手にしていた松明であった。 防犯意識のゆるい町といえども、それらしい取り組みがゼロというわけではない。夏の時期を中心に、町内会の有志による夜間パトロールが行われていることは私も知っていた。が、その実態は週に一度、年季の入った役員の方々が一杯ひっかけた後に千鳥足で巡回している程度だとも知っていたので、こんな展開は想像もしていなかったのだ。 高齢化が進む町内会に若い男手を、ということで魔王にお鉢が回ってきたのだという。常日頃から、会費は一括払い、回覧板の中身もしっかり確認、町内清掃などにも参加など、魔王は町内会の活動に律儀だ。加えて魔王に絶大な影響を誇るであろう、犬を司る三枝さんも町内会と繋がりは深い。このあたりから打診を受ければ魔王も無碍に断れまい。 「そなたは何故そうも浅はかであるか」 一通り拭き終えた魔王は、燃え盛る炎を手に厳しい面持ちで私を見下ろした。 「年若い娘が夜道を一人歩きとは正気の沙汰ではない」 すでに見慣れているはずの面立ちも、松明の明かりに炙られながら闇夜に浮かび上がるという特殊効果のせいで、普段より遥かに禍々しい。軽く見積もってもその迫力は六倍増だ。子供の夜泣き間違いなし。なによりまず私が泣かされた。 「ちょっとコンビニまで行く用事があって……」 自転車は魔王の足元で倒れ伏している。よいしょとそれを起こしながら、私は電球が切れた旨を伝えた。魔王はふむふむと素直に聞き入れていたが、表情から険しさは去らない。 「灯りを失うは不便であろう。が、解せぬ。なにゆえ四輪車を使わぬのか」 「それがお酒飲んじゃったみたいで。飲酒運転させられませんから」 通じないかも知れないと思いつつ口に出したが説得力を持って伝わったらしく、詰るような気配が少し緩んだ。それでも眉間にはまだ皺が残っている。魔王はわずかに松明を差し出し、その炎で私の全身を照らした。 「ならばそれ相応の支度をせよ。そのような心許ない……」 思わず私は自分の格好を上から下まで眺めた。Tシャツに膝が見える程度のショートパンツ、特別みすぼらしいわけでも露出度が高いわけでもなく、夏の装いとしては至って無難に思える。 「こんなもんじゃないですか普通」 「守りが薄い。襲撃に耐えられる程度の装備を固めよ」 あいにく防御力重視で服を買う習慣がない。 「季節柄あんまり分厚いのは……」 「鎧の類は所持しておらぬか」 「所持してるお宅の方が希少だと思います」 例え持っていたとしても、普段使いのワードローブとしてクローゼットに加わる可能性は極めて低いと思われる。備えの乏しさを嘆いたか、魔王は小さくかぶりを振った。 「世話の焼ける奴よ。特別に貸し与えるゆえ、有事の際には申し出よ」 と、魔王は自身がまとっているローブを指した。魔王いわく、ドラゴンの火を跳ね返し、光の刃を退け、獅子の牙も通さないそうである。すごい。耐久性もすごいが、それ以前に竜に襲われ斬りかかられライオンに噛み砕かれるという状況がすごい。借り受けるような機会が万が一にも訪れないことを切に願う。 倒れた時の衝撃か、自転車のライトが消えたまま戻らない。一度派手に転倒していることだし、他に故障してないとも限らないので、乗らずに押して帰ることにした。自転車の電灯は頼れなくなったが、明かりに関しては問題ない。散々無用心だなんだと責めた魔王が私を一人で放り出すわけがなく、家まで送り届けてもらえることになった。ちょうど夜回りを終えて帰路につくところだったらしい。 「誰かと会いましたか」 「人っ子一人歩いておらぬ」 「ですよね」 私も魔王と遭遇するまで、カエルと虫の息吹しか感じられなかった。 「カオリ、そなたはどうであった」 「なんですか?」 「怪しげな輩は見ておらぬか」 見た。なんか夜道で松明持ってた。 とはまさか言えるはずもないので「特には」と返事をすると、魔王は相槌を打った。 「不届き者あらば成敗する心づもりであったが、何事もない」 魔王が落とした視線に誘われて私も目をやると、どこから出したものかその手にはすらりと長い得物が握られていた。近頃の通販の取り扱いは幅広い。多種多様なニーズに応えており、手に入らないものはないと聞く。 そう。 例えば。 三つ葉葵の家紋入り日本刀とか。 「ど、どうしたんですかそれ」 「護身用に取り寄せたまで」 私はいつか魔王宅で目にした時代劇のDVDを思い出した。ボックス購入に踏み切るくらいなのだから好きなのだろうとは思っていたが、まさか模造刀まで手に入れてしまうとは想像以上のご執心。その内、白馬で町を駆け回り始めたらどうしよう。まあとりあえず一度くらいは乗せてもらおう。 しかしいくら何でもこの姿での徘徊はよろしくない、と私は横目で帯刀した魔王を見た。人気のない田舎だからいいものの、都市部であれば間違いなく三歩で職務質問、略して職質コースまっしぐら。 「あんまり持ち歩かないほうがいいかと」 「障りがあるか」 「まあ、ちょっと」 「徳川家が見過ごさぬと」 「いや警察が」 少し残念そうな横顔はそれでも素直に頷き、以後改めようと呟いて得物をローブで隠すように戻した。 腰に刀、片手に松明。本人は至って真面目にパトロールにあたっているのだろうが、アイテム選択を誤ったせいで不穏極まりない。どう贔屓目に見ても討ち入りか山狩りなのである。ただその分、威嚇としてはこれほどの適任は他にいないのも事実だ。たとえ夜道で出くわしたとしても、おそらく不審者の方が怖気づく。見た目はどうあれ、この町の平和が保たれるなら良いことなのかも知れない。 ゆっくりとした足運びで歩く魔王は、低い声で冷麦について語っている。日々アレンジを加えて消費しているらしいがなかなか減らないらしい。その言葉の端々から、冷麦を引き取れという圧を感じたが全く出ていない月を見上げるなどしてやり過ごした。 自転車で走っている時は心細いばかりだったのに、ごまだれと冷麦の相性を考える程度に私は余裕というものを取り戻している。やはり道連れが居るのと居ないでは、得られる安心感は天と地だ。 その道連れが魔王ということについて改めて考えると、豪華というか贅沢というか無駄遣いである。本来なら衛兵や門番の仕事だろうに、不満を抱いた様子もなく粛々と夜回りをこなす当人の柔軟性も見逃せない。自身の仕事はいいのだろうか、と案じてしまいそうになったが、そもそも魔王として働く姿を一度として見ていない気がする。最近では庭でハーブなど育て始めているのである。この人は一体いつも何をしているんだ。うらぶれた様子もないし、通販で買い物を楽しむなどそこそこ裕福な暮らしを送っているし、魔王(15・無職)ということもあるまい。 「魔王さんは、あのー……」 口に出してから、もしかして就活中という可能性がよぎり、つい言いよどむ。魔王はそれを許さず、威厳を持って先を促した。 「申せ」 「その、普段お仕事の方は……」 相手の口からハローワークの単語が出ないことだけを祈りつつそう告げると、魔王はなんだそんなことかとでも言うようにさらりと返した。 「休暇中の身ゆえ問題ない」 光に誘われた羽虫が身を焦がす音を立てて松明の中に消える。 なるほど。休暇。私は急に会社員と話しているような感覚に陥った。 「休暇とかあるんですか」 「何物であろうと休息は不可欠。そうは思わぬか」 「はっ全くその通りで」 労働に身を捧ぐばかりが人生ではない。魔王にだってバカンスを満喫する権利くらいあろう。 労働形態などよくわからないものの、長期の休暇が可能とはなかなか福利厚生のしっかりした職場である。最近は社員に有給をとらせない企業も多いと聞くし、人の世の方がよほど修羅なのかも知れない。つい魔王配下への就職に揺らぐ。いや待て私には安定した農協系という道が。 私が将来設計に心惑わせているとも知らず、魔王は風にその長い髪をなびかせた。 「そなたも休暇のさなかであるな」 「あ、はい夏休みです。でも課題が結構あるから遊んでばかりもいられなくて」 進学校ほどではないにせよ、軽くこなせるほどの量でもない。無計画に遊びほうけていると、徹夜か級友に泣きつくか、もしくは仮病の練習のどれかを選ばねばならなくなる。誰とは言わないが休み最終日の宮間くんのことである。 重厚な声が私の耳に向かって語った。 「知を蓄えるに無駄はない。己の糧となるようせいぜい励むことだ」 前々から感じるものがあったが、今の指導的な物言いといい、さきほどの服装についての小言といい。 「なんかお父さんみたいですね……」 しみじみ言うと、大真面目な顔と口調がこう答えた。 「カオリ、余はそなたの父ではない」 「いやわかってますよ」 何でも真に受ける相手だと下手なことが言えなくて困る。 「時にカオリ」 ふと気がついたように魔王が声を出した。 「これまでそなたの父を目にしておらぬが」 「ああ、普段は遠く離れたところにいるので。毎年お盆には戻るんですけど、」 話している途中で、隣を行く魔王の歩みが止まった。ハンドルに手を預けたまま振り返る形で見上げると、高い位置にある美貌が痛ましそうにこちらを見ていた。 「つまらぬことを訊いた。許せ」 「え……? あっ!? ち、違います! お盆に戻るってそういう意味じゃなくて! 死者として帰る的なことじゃなくて! 死んでない生きてる! すごい生きてる!」 言い方が悪かったにせよ、また明後日の方向に伝わったものだ。放置するには過ぎた誤解なので、私は躍起になって打ち消した。父は仕事の関係で単身赴任を強いられているだけである。鬼籍には入っていないのである。 私の全力の否定を受けて、魔王の表情はようやく氷室を思わせる涼しげなものに戻った。全く人騒がせな、とため息など吐いている。同感である。私も魔王よりいくらか控えめに吐かせていただいた。 闇の遥か向こうを小さな光が滑っていく。なんとはなしに目で追うと、何本もの先の道路を走る車のヘッドライトだと知れた。魔王以外の人の気配というものを、今夜初めて感じた。 「騒がしいのはカエルだけですね」 ぽつりとこぼすと、上から視線が降ってきた。 「そなたは青蛙よりも騒がしく無様であったが」 「うっ……」 思わぬタイミングで醜態を蒸し返され、私は言葉に詰まった。忘れたいし忘れて欲しい。 無様を晒すでない、とはあの時泣いた私へ魔王の最初の言葉である。高校生にもなって人前で泣くとは、確かにみっともなかった。しかもほろりと涙をこぼすような可愛いものではなく、子供が予防接種で泣き叫ぶような騒音系だ。これはまさに無様。しかしその無様を誘発した原因がそれを言うか、という気もしないでもない。 あの時さしもの魔王も唐突に泣き出されて困惑したのだろう、私に近づく際、倒れている自転車の存在に気づかず、したたかにスネを打ち付けていた。一瞬顔をしかめたものの、威厳を失うことなく即座に尊大な台詞を放つあたりはさすがの風格といえよう。どうでもいいが、獅子の牙は通さないのにスネへの打撃は通すローブの性能がわからない。 「孤独に耐えかね泣き喚くとは童子と変わらぬぞ」 「べ、別に普段からワンワン泣いてるわけじゃ、今回はその、事情があったというか」 「ほう。事情とやらを申してみよ」 説明したところで、くだらないと一蹴されることは目に見えていた。しかし一人で抱えて怖がっているよりも、冷徹なまでに否定された方が恐怖が和らぐのではないかと思い、私は魔王に這いずりさんのことを話して聞かせた。 胡乱げな視線を寄越すでもなく真顔で耳を傾けていた魔王は、しばらく考え込むように黙していたが、やがてゆっくりと口を開いた。 「……水場に引き込まれる前こそ要。出方を待たず迅速に討つが上策か」 やけに難しい顔をしているかと思えば、真剣に交戦のプランを練っていたのだった。 確かに田んぼに引きずり込まれる前に勝負を決めるべきだろうとは思う。魔王、水中戦弱そう。主に羽の問題で。 とはいえそれは、対峙する可能性があった上の話である。あくまで這いずりさんは架空の化物であって、現実ではない。それを見透かしたように魔王はその視線で私を刺した。 「作り事と片付けるは早計」 地鳴りのような声が囁いた。悪ふざけを欠片も含まない眼差しと語り口に、置いてきたはずの不安がえぐられる。 「な……何を言い出すんですか」 怯む私の様子など目に入らないのか、腕を組んだ魔王は淡々と言葉を並べ立てた。 「古来より、多くの物の怪は人の想像から産み落とされる」 「やややめてください怖い」 「根深き思念や妄想が沈殿し、やがておぞましくも魂を得るは珍しくもない」 「ちょ、ほんとにやめ、」 「ゆえにその這いずりさんとやらの存在を否定はでき」 「やめろお!」 咄嗟に体当たりを食らわせた私になんの罪があろうか。 子供の頃に這いずりさんに襲われる夢をよく見た。どろどろに溶けた手が私の両足をつかんで田んぼに引きずり込むという結構なレベルの悪夢である。が、あれは夢だからこそ何とか折り合いをつけられるのであって、実際起こりうる話として語られてしまったら心の均衡が保てない。そんなリアルはいらない。 魔王はさすがに頑丈で、小娘一人では到底威力が足りず倒れるどころかびくともしなかったが、手離したために自転車は倒れた。その際、ハンドル部分が魔王のスネに直撃したのは偶然にほかならない。魔王は打ち付けた場所をさすってから、憎らしいほどの落ち着きで私を見下ろした。その眼差し、躾のなっていない飼い犬を見守るがごとくである。 「カオリ、我を失ってはならぬ」 「だ、誰のせいで、」 「泣くな」 「泣いてまぜん」 「裾を踏むな」 「踏んでまぜん」 反射で答えたものの、実のところ踏んでいた。洟をすすり上げながら足をどけようと、私が視線を落とした時である。 風もないのに、がさり、と蠢く音がした。 下を向いていたせいでどこから響いたものか判断できず、四方に視線を巡らせる。闇だ。視覚が機能するのは炎が佇む魔王の周囲だけで、あとは形として色として動作として何も私に教えようとしない。魔王も物音を拾ったのか、冷ややかな目の端にわずか警戒が見える。 いくらか間を置いて、再び草木を分けいるような音がした。神経を尖らせていたせいで、田畑の反対側、木々が生い茂る森の方からだと知れた。虫や蛙ではこれほどは響かない。明らかに大きな音だった。犬や猫よりもっと、それこそ人くらいの重みを備えた何かが闇を移動している。 「――もしやカオリの言う這いず」 「ちがいますちがいます這いずりさんは田んぼから来るんです」 「セミを食すのであろう。ならば森に現れるも道理」 「やめてぐだざいよお」 「泣くなカオリ。無様を晒すな」 無様を晒すまで追い込んでるのは誰なんだ。しかし今の私にとって魔王しか頼る相手がいない。皺になることも顧みず、死んでも離すまいとローブを命綱のようにつかむ。 「案ずるな。一閃のもとに討ち果たしてくれようぞ。首はそなたに譲るゆえ持ち帰るが良い」 「いらないいい」 えげつない申し出に早速ローブから手が離れた。すかさずその手に松明を預けられ、熱さも忘れてしがみついた。 不気味な暗い森はさらながら呼吸するがごとく蠢く。遠慮がちでさえあった物音は、今や己を誇示するかのような荒々しさで鼓膜を揺らしていた。どんどんと存在感を増して私たちに近づいてくる。迫る気配に私は息を飲んだ。 「地を這う虚ろな骸め。余と知った上の狼藉であるなら容赦はせぬ、今世の未練ごとかっさばいてくれよう」 魔王が腰の得物に手をかけた。 「見よ、血に飢えた妖刀が今宵も餌食を求めて鳴いておる」 たかだか通販の模造刀にそれは少し荷が重いのではないか。 松明の明かりが届くのは道路に面した木々のあたりまで。その群れが身震いするように葉を大きく揺らすのが見えた。来る。背中が粟立った。 次の瞬間、いくつもの光を引き連れ、暗闇を突っ切るようにしてそれは現れた。 私は言葉も悲鳴もなく、およそ人とは思えぬその姿に目を奪われた。 その身全ては毛で覆われ、 四本足で這いつくばり、 地を駆けるに長けたしなやかな体躯は、 どこか鹿に似ていた。 いや鹿だった。 大小二頭、こちらをちらちらと伺いながらも、慣れた様子で車道を渡っていく。そのまま畑を小走りで駆け抜け、獣は再び夜へ失せた。 意識から遮断されていたカエルの声が、思い出したように耳に鳴り響く。 「……親子……」 「……親子ですね……」 「……仔鹿と」 「こじか」 「仔鹿と目が合った」 「それは良かったですね……」 半ば呆然と立ち尽くしたあと、鹿相手に啖呵を切った魔王は刀をそっと鞘に戻した。鹿相手に涙目だった私もまた無言で自転車を起こす。田舎道の孤独を恨めしく思うことはあったが、今ほど人目がない事実に感謝したことはない。 今宵は月も星も慰めも見えない空である。 血に飢えた妖刀を以てしても、そこはかとなく漂う「気まずさ」という名の魔物を討つは難しく、夜風がさらうに任せるしかなかった。 家に着くと、電球は粉々に割れていた。 |